ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

フリーになって5年たって、5年後に読み返したいささやかな「まえがき」。

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これは子どもの頃のぼくの写真。たぶん5歳くらいだと思います。フィルムの質感がいいですね。じつはいま4歳の次男がこれにそっくりです。彼が拗ねたり、駄々をこねたり、母親に反抗したりするのを見るたびに、ああ自分もまったくこのとおりだったし、たぶんそれは45歳になったいまだって、なーんにも変わってないなあと思うのです。で、なんでこの写真を貼っつけたかというと、このエントリのテーマが「初心」だからです。

5月から書き連ねてきた宇治特集号セルフレビューが中断しておりますが、せっかくの記念というか節目なので、ちょっと別テーマでブログを書いとくことにしました。

じつはこの7月1日をもって、フリーランスになってちょうどまる5年を迎え、今日から6年目の始動となりました。フリーになった2012年7月当時にも、それから5年を迎えたいまも「なんかパーティーめいたことやれば?」という声もあるにはあったのですが、まあ、とくにどうってことないふだんどおりの月曜日です。そのほうが自分らしいかな、とも思います。
でも、初心忘るべからずなので、会社辞める報告をしたブログ置いときます。このエントリーをもって、このブログをスタートしたんですよね。

naoyamatsushima.hatenablog.com

いま話題の元電通関西の田中泰延さんは「青年失業家」と名乗ってますが、ブログ読むと当時のぼくも「ハイパーメディアフリーター」とかなんとか書いちゃっていますね(笑)。

これを書いた当時は当然のことながらまだENJOY KYOTOをやることになるとは思っていなかった。じつは当時のこのエントリーにも書いているとおり、なにをやるかも決まっていなかったし、仕事が入ってくるメドも立っていませんでした。さらには自分なりの義理もあって、もといた大阪の広告制作会社で受けていた仕事については、少なくとも一年は断ろうと決めていたし、収入はゼロからのスタートだという覚悟を決めていました。しばらくはけっこうキツかったですね。それでもなんとかかんとかやってきて、まあいまもってあの時に辞めてよかったなと思います。思えています。そしてその理由も、やっぱり当時このブログに書いたとおりです。

とくにポートフォリオを作ったり営業活動めいたことなんかもまったくしてこなかったにもかかわらず、こうしてお仕事を定期的にいただいたり、声をかけていただいた人たちに対しては、とにかく感謝しかないです。とりあえずリヤカー引いたり釘拾いをせずに済んでいるのは、お仕事をくれている人たちのおかげです。本当にありがとうです。
それどころかENJOY KYOTOではくるりつじあやのさん、岡崎体育さんといったミュージシャンや、各分野でのトップアーティストや職人さんにお会いしてお話を伺うことができたし、なにせパトリス・ルコントに単独インタビューできるなんて機会は、おそらく以前の仕事を続けていたらまず考えられなかったろうと思います。αステーションのラジオ番組にもなんども出演させていただいたりもしましたしね。

またそれ以外の広告の仕事でも、京都精華大学のネット記事の仕事としてまたもやくるり岸田繁さんに取材をさせてもらったり、商品のブランディングやプロジェクトの企画から携わる仕事をさせていただいたりしています。いまもこうやって関西のみのお仕事で、しかも個人でコピーライターという仕事をさせてもらっていること、続けさせてもらっていること自体に、すごく驚いているとともにとても感謝しています。

ちなみに、営業活動をしてこなかった理由はイヤな仕事はしないために辞めたのだから、しばらくはイヤな仕事はぜんぶ断ってやろうと思っていたから。「仕事ください」と出向いといて「イヤな仕事だから」と断ることは、さすがにできないなーと思ったからです。
ともかく、とくに戦略もマーケティングプランもなく、ただ自分の経験と勘と嗅覚を頼りに、こっちにいい水脈があるはずだとか、こっちに行けばきっと道が開けるはずだ、とやってきてそれで大きくは間違ってこなかったというファクトが、いまは大きな自信になっています。

もともと人に指図されて素直に聞けるタイプでもないし、頭をぶつけながら、道に迷いながら、自分で自分を納得させながらここまでずっと進んできたので、これからもそうやっていこうと思います。
そして。10代の頃から、節目節目でドカンといままでの積み重ねをうっちゃるようなことをやったり、このままいけば安定するというところで突如として方向転換して違う道に進んだりしてきたものの、後から見ればそれが結果的に良かったりもしたので、この6年目の始動にあたっても、ちょっと動きを変えてみようかなと、いろいろ考えていたりします。

とりあえずは(いまさら地味で、かつ低い目標設定ではありますが)twitterのフォロワーを今年中に1000人以上にするという目標は掲げています。それなりに努力もしています(そういえばいま話題の小池百合子東京都知事は、なぜかぼくがtwitter始めた2009年ごろからぼくをフォローしてくれています(笑))。
なぜいまごろになってこんな目標を立てたのかというと、まずもって自分はもうメディアの世界でもそろそろ古い世代になってきてると実感することが増えてきた、ということがあります。とりわけ、いわゆる若い世代を中心にしたネットライター界隈の人たちを「なんだか近ごろバズることが目的化してるぞ!」などとちょっと遠目に見ていました。なんかそういう炎上上等みたいな、ネットカルチャーとは距離をとってきたわけです。
それにそもそも東京というのは、たくさんの人とたくさんの企業本社とたくさんのメディアが集まり、それに伴ってお金もたくさん集まっているもんだから、なんとなく盛り上がってるようには見えるけど、そのじつとっても小さなコミュニティの単なる内輪ネタ、楽屋話じゃないかとね、それはもうずっと、ちょっとバカにしてきたんです。ああいうのはちょっとどうも、と。

でも、です。あるときに、まあそれを言うのならまずオマエがバズらせてみろよ、と自分自身に対して思ったのですね。そうやってキライな土俵から逃げてないでやってみろよ、と。まずはせめてフォロワー1000人くらいは超えてからモノ言えよ、と。それは誰かにそう言われたわけでなく、突然そう自分で思ったのです。
こないだ岡崎体育さんもあえて宇治から発信することの意味についてお話しされていましたけど、自分もそうやってただただ東京を冷笑したり、ましてや敵視したりして距離を置くばっかりじゃなく(京都最高!地方万歳!ってのも、それはそれでやっぱり閉じていると思うんですよ)、むしろ東京のやりかたでもって東京以外から成功事例を作れないもんかと、そんなことをボヤボヤ考えているわけなんです。
あとまあENJOY KYOTOでは英字メディアとして海外につながる窓も開かれているわけだから、たとえば巨大都市にして世界の田舎である東京(また悪口言ってる!)との差異でいえば、京都らしい風穴の開けかたってものが、それはそれであるんじゃないかと、そんな風にも思っているんです。

そういうわけで誰かが言ってた「クリエイティブは、真夜中の孤独に耐えられる人から生まれる。サロンから文化は生まれない。歴史は夜作られるとはそういうこと」という至言に首がもげそうなくらいに強く頷いてしまう根っからの職工カタギな自分としては、引っ込み思案でついつい家で深夜に飲みながら本を読む生活になりがちだったりはするのですが、たまには酒場にも出向こうとも思うのでよかったらまた誘ってください。次の5年、つまりは10年目には海外から英語でエントリーを投稿してたりできるよう、がんばります。なーんて久しぶりにブログタイトルの「マエガキ」らしいエントリーになったところで、おしまい!