ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

現実でも非現実でもない切実

f:id:fu-wa:20180331233622j:plain

結婚したときに奥さんのご実家から贈り物でもらったサツキやナンテン、カネノナルキなどの植木を、ベランダでもう10年ほど毎朝水をやり雑草を抜き、剪定をしたりして育てている。わーっと咲いてワンシーズンで終わりという花なんかよりは、長い時間かけてこじんまり成長する植木とかを育てるのがいい。新芽が出て、葉が茂って、葉が枯れて、裸になって、また春に新芽が出る。くりかえしの美しさ。ぜんぶ知ってる。ぜんぶ見てきた。その過程がぜんぶないと、美しくないんだということが、木を育てていると身にしみてよくわかってくる。子供を育てるのも似たようなところはあるかな。

f:id:fu-wa:20180331233553j:plain

そういえば先日録画していた「写真家 荒木経惟 77歳の切実」を観た。荒木氏の言葉を遮り続ける満島ひかりさんの語りや解釈は、ちょっと過剰で余計に感じたけど番組としてはとてもよかった。荒木氏の「切なさが感じられない写真はダメ」という言葉が心に残った。まあ、そうだな。だって写真は、遠い未来に過去になるはずのいまを撮っているんだもの。番組内で荒木氏は「もしいま一点選ぶとしたら」として陽子夫人がソファで彼の隣に座ってどこかをじっと見つめている瞬間を撮った写真をあげてこう言っている。

f:id:fu-wa:20180401002236j:plain

幸せな時なのに、彼女、顔が一人なんだよね。孤独感が写っている。俺がこんなに愛しているのに向こうに通じていないというのが写っている


まあ男にとって恋愛というのは、基本的にそういうものだなあ、と思う。

f:id:fu-wa:20180331233353j:plain

荒木経惟は妻の死後、ベランダから毎日同じ空を繰り返し撮っていた(それはたしか桑原甲子雄が先にやっていて、荒木氏もそれは知ってるはず)。それらの写真が、すごくいい。ぼくは荒木氏の写真のなかではそういう写真が好きだ。なんでもない空なんだけど、だからいい。視てる人(写真家)の悲しみが、じわーっとその空に広がっていくのがわかる。それは涙がこぼれそうになって、慌てて顔を上げた時に見えた空の感じなんだろうと思う。
荒木経惟という人は、ああいう見た目で写真もどぎついものが有名でエキセントリックなイメージなんだけど、本当は悲しみの人なんだと思った。「父と母と妻の死に顔を撮ったら誰でも一人前の写真家になれる」なんて言ってたけど、これも実際に父と母と妻の死に顔を撮った彼なりの、悲しみの表現なんだろう。そういえば彼は糸井重里さんとの対談でも語っているが、愛妻の陽子さんが亡くなった後で糸井さんはじめ仲間らが「励ます会」を開いたところ、荒木氏はみんなにこう言い放ったという。

俺はいま、せっかくいい感じで悲しんでんだから励まさないでくれ

その感じも、すごくよくわかる。
www.1101.com


f:id:fu-wa:20180331233458j:plain
f:id:fu-wa:20180331233525j:plain

なぜなら「遠い未来に過去になるはずのいま」というのは写真の本質であると同時に、ぼく自身の世界の見方とも重なっていて、若かりし頃に自主映画作品を撮ったり物書きとして脚本なんかを書いていた時も、それから中学生とかで詩や日記を書いていた時も、さらには保育園で「ああこの子がのちに初恋の娘になるのかあ」なんて考えていた時も、ぼくはいつも現在を過去として見ていたように思う。それはいまも、かな。それが創作のひとつの基準になっていた。

変わったことといえば、若い頃は春の騒々しくてどこか狂った感じが好きではなかった。むしろ秋の切なさ、切実さのほうに共感を抱いていた。秋冬こそ死や終焉をイメージする季節なんだと。でも歳をとると春の儚さに、グッとくるようになった。というか、春の切なさがわかってきた。春は始まりの季節ではなく、終わりのさらにその後、なのだ。それが木を育ててわかった。自分の死後に、子供たちの生きている世界を見ているような感覚とでもいうか。それはまさに、現在を過去として未来から見ている「あの眼差し」のことなんだと思う。

f:id:fu-wa:20180331233427j:plain

秋に葉が枯れ、冬に裸木になった枝から、春に新芽が出てくる。しかし、それは同じように見えて実はまったく別の新しい命が生まれている。みんなが毎年見ている桜も、同じ木から同じように桜が咲いているように見えるけど、あれも実はひとつひとつみんな違う花であり、違う風景なのだ。
だから春は誕生の季節であると同時に、死後の再生の季節でもある。それゆえにどこか非現実的で、写真の中の自分や鏡の中の自分を見ているような、フィクションのそれも二次創作の世界であるかのような、心地よい、よそよそしさがあるのだと思う。この世にいないものとしてこの世を見ているような眼差し。それが春の物憂さや切なさ、現実でも非現実でもない「切実さ」の正体ではないか。

f:id:fu-wa:20180331233650j:plain