ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

秋風が吹きはじめた街で 〜松尾優さんの京都文化博物館でのコンサート〜

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きのう京都文化博物館で開かれた松尾優さんのコンサートに行ってきました。朝からとってもいい天気で、街には夏の終わりを告げる独特のいい風が吹いていて、会場のレトロな洋館と、グランドピアノ音色と、透明感のある彼女の声がとてもマッチする、とにかく晴れやかな祝日にうってつけのコンサートでした。

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小さなカフェでのライブから野外でのフリーライブ、祇園のバーでの弾き語りといろんな形態で彼女のライブは見てきましたが、2016年に始まった今年で3回目になるこの京都文化博物館別館ホールでのコンサートは、やはり特別なものです。小さな子どもからご年配の方まで、お着物を召した女性もTシャツにジーンズの男性も、コアなファンからいろんなつながりで最近知った人まで、じつにさまざまな人たちが大きなホールに集まって、思い思いのスタイルで彼女のピアノと歌に耳を傾けている姿が印象的でした。好みが多様化して細分化している時代にあって、多くのライブ会場で見るのは、そのアーティストのファン独特の決まったファッションやトーン&マナーです。それはそれで居心地の良いことなのかもしれません。なので、こういうタイプのコンサートは最近めずらしいのではないかなと思いました。そしてぼくは、この風景、この空気が、とっても好きなのです。ほんとの自由というのは、こういうものだと思うからです。

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今回のコンサートではハイライトがいくつもあって、まるでミュージカル舞台を見ているような楽しさがあり、とてもバラエティに富んだコンサートで2時間あっという間でした。
「紙吹雪」という曲では先斗町の舞妓さんである秀華乃さんの舞との共演され、これがじつに素晴らしかったです。この舞をフィーチャーしたおふたり共演での「紙吹雪」のミュージックビデオを作ったら海外で人気出るんじゃないかなあ。
また、彼女が京都女子大4年生の時に教育実習で出会った生徒たちに向けて作った曲でサカイ引越センターのCMソングにもなった代表曲「君が大人になって」では、子どもたちの合唱隊とも共演。このコラボレーションもちょっとカーペンターズの「Sing」とかを思い出させる雰囲気で、すごく良かったです。

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それから、松尾優さんは今年の6月にはなんと中国でもデビューされ、北京や上海、天津などを巡るツアーを敢行。その際にはフェイ・ウォンの「我願意」をカバーされたのだそうです。彼女いわくこの曲は中国ツアーの際に現地マネージャーにオススメされ、とても感動したので中国のお客さん向けに披露したということでした。
じつは(たぶん彼女は忘れていたのだと思うのだけれど)たまたま数年前、ぼくがなんとなく優さんの歌は中国で受けそうだなと思って「中国にこんな歌があるよ」とお勧めした歌もこの「我願意」でした。それに(これはあくまで余談ですが)「我願意」という歌は、1990年代のはじめ、ぼくがまだ20代の頃に働いていたパナソニックの工場に天津から来た中国の若きエリート研修生と仲良くなって、一緒に三条の珉珉で餃子とビールを飲みながら歌った歌でもあり、そういう個人的な思い出もある歌でした。あの頃はまだバブル崩壊直後ではあったとはいえ日本の方が経済的にも上で、中国は一所懸命に日本の技術を学んで経済成長を目指していた時代でした。だから、フェイ・ウォンの歌が(しかもまだ北京時代の古い曲が!)いまでも中国の音楽関係者のあいだで好まれていることがすごくうれしかったし、そういう好みのラインが似ているところもぼくが松尾優さんの歌が好きな所以なのかもと思いました。ともかく、松尾優さんの歌の魅力は、どこかそういう「歌謡」の雰囲気を残しているところだと思うし、中国はもともとチャゲ&飛鳥中島みゆきなど、そういう歌謡を感じさせるポップスが人気のお国柄なので、松尾優さんの中国のマーケット進出、けっこう可能性あると思うなあ!

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じつは松尾優さんのことは、彼女がまだ大学生のころに京都学生祭典のライブに出演されていた頃から知っていて、そうした縁もあってENJOY KYOTOで取材させていただいたり、彼女のアルバム「Kiss and Fly」発売の際にはレビューを書かせていただき、歌詞カードにはスペシャルサンクスとしてぼくの名前をクレジットしていただいたりしたこともありました。

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いま流行りのサウンドとはいえないだろうし、時代を変えるようなとんがった過激な歌詞もありません。DJもいませんし、派手なダンスもありません(舞妓さんの舞はありました)。でも逆にいえば時代や年代を超えて愛され続ける音楽であり、世界中の誰もが楽しく聴ける、とても普遍的な音楽なのだと思います。マーケティング戦略やメディア戦略なんかとは無縁の、心から心へ直接届く音楽なのだと、ぼくはそう思います。

変拍子だらけの超絶技巧ピアノ演奏も素晴らしいし、街にふわっと吹いてくる優しい秋風のような歌も本当に美しいです。かつてThe New York Timesではドリス・デイとラッパーのスヌープ・ドギー・ドッグの写真と並べて「ポップスはいかにしてメロディを失ったか?」という記事を出したけれど(あれももう25年前!)、いまどきの音楽はどんどんメロディを失ってサウンド志向になっていくし、それはそれで好きなものもたくさんあるのだけれど、松尾優さんの歌は「ああ歌というのはこういうものだったなあ」と、「みんなが歌える歌というのはいいものだなあ」ということを思い出させてくれます。

www.nytimes.com

直近だと9月28日に下鴨神社 糺ノ森でフリーコンサートがありますので、そちらに足を運んでみるのも良いと思います。涼しくなった秋の京都の森で、手拍子足拍子しながら、思い切り大きな声で歌を歌ってみるのもいいと思うのです。ぜひ。

●彼女の代表曲「君が大人になって」

卒業する子供達へ「君が大人になって」リリックビデオ(2013)/松尾優

●超絶技巧ピアノインストゥルメンタルカフカ

【MV】松尾優「カフカ」

●最新アルバム「ライラックの空に」のなかの個人的お気に入り曲「Love Day」

Love day




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生活のない「文化都市」に文化はあるのか?

【お仕事紹介】

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都市は有機体である。そうすると、そこに住む人たちは血液であり、大小複雑に張り巡らされた道を東へ西へと行き来しながら、街に栄養や酸素をせっせと運んでいることになる。では都市にとっての建物はなんだろう?
そんなことを考えさせられたのが、このお仕事でした。京都市文化財保護課で進めている「京都を彩る建物や庭園」という事業があって、先日(というか実際に取材したのはもう去年のことなのですが)、その認定を受けた所有者さんたちが集まって京町家活用について語り合う交流会と、実際に認定を受けたお宅での見学会の模様を取材して書きました。

はっきり言ってコピーライターの仕事としては、どちらかというと地味な部類のお仕事です。派手なキャッチコピーも著名人取材もありゃしません。でも、京都の中心部から京町家がどんどんなくなっているいま、とても大事なテーマだなあと思うのです。
ぼくはこの交流会や見学会に参加し、取材して原稿を書いていくうちに、はてさて、そもそも町家をどうやって残すのか?とか、有効利用がどうとかいう以前に、「そもそもなんのために町家を残すのか?」という、ちょっと思想的というか原理的なところまで掘り下げて考えてみないことには、どうにもこうにもうまくいかないぞ!というところまで来ていると感じました。

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ちょっと余談をはさむと、5年前にENJOY KYOTOを始めたときにぼくが「住みたくなる京都」というテーマを掲げた理由は、旅というのは長距離移動によって未知なる街でふだん出会えない人と出会うことであり、異国に住む人たちの生活、生活に臨む姿勢、人が生きていく姿をその目で見つめることによって、むしろ人種も文化も宗教も違う遠い国であっても、一人一人の暮らしや日々の習慣、そしてなにより幸福のかたちは、それほど変わらないんだということを伝えたい、というものでした。
それで、その幸福のかたちの「基盤」が、家なのではないかとよく考えるのですが、そこがいま揺らいでいるのだとしたら、外国から来たツーリストたちは京都という「書割」を見て帰ることになってしまうのではないだろうか。そういう危惧が生まれたのです。ちょうどぼくらが映画なんかで間違った日本のキャラクターに出くわしたり、外国のお寿司屋さんでビミョーなにぎりを出されたときみたいに。

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とはいえ、かくいうぼくも住まいはマンションです。機能性、利便性、防犯、耐震、さまざまな条件を考えたとき、マンションはとても合理的な選択で、これを否定はできない。だからこそ「古いものだから潰すな」「文化だから残せ」、これだけでは、やっぱり残らないんじゃないかなあ。むしろ建物そのものはもとより、建物が表していた生活スタイルや習慣だけでも、残るかたちにできないだろうか。そう考えたりします。たとえば町家は基礎とウワモノが分かれているので直しながらずっと住めるという話。これなんかは京都らしい知恵というか生活の思想に通ずるものだなあと思うのです。

だから町家がどうとかいうことだけではなくて、本当に残すべきものってなんなのだろう?ということ。これから人口が減るなかで、町家うんぬんだけではなく、京都という街に住むこと、その都市としての精神性みたいなものを残すこと、もはやそこのところから問われ始めているような気がしています。だって、そもそもそこに住む人たちのリアルな生活のない街なんて、住むどころか旅行したいとさえ、あんまり(というかまったく)思わないものなあ。

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京都外国語大学とのコラボを終えて

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どうも、どうも。ずいぶんとお久しぶりになってしまいました。そしてENJOY KYOTOについて書くのも、もうかなり久しぶりのことですよね。去年のお茶のシリーズの時以来ですね。岡崎体育さんの記事以来かな。ともあれ、twitterの方ではこまめにリアルタイムでぶつくさ書いているのでよかったらそっち見ていただければと思います。
さて、今回のENJOY KYOTO Issue29では、ちょっと新しいことにチャレンジしています。それはなにかというと、京都外国語大学とのコラボ企画としてイギリス・ロンドン大学からの留学生アディと、それから栗山さん、中井さん、横山さん、米虫さん4人の日本人学生と一緒に紙面を作る、という新しい試みのことなのです。

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まず2月9日にキックオフのミーティングがあり、そこから3月の初めになにをテーマに紙面を作るか?を、学生さんたちにプレゼンテーションしてもらいました。アディは街中を歩いていて誰もが目にできる「のれん」を、栗山さんは京都は夜の観光スポットが弱いという情報を得て「夜に楽しめる観光スポット」を、横山さんは「京土産、お茶と和菓子、海の京都」と多彩なテーマを、そして米虫さんはたまたまちょうどENJOY KYOTOの特集とかぶってしまった「スパイス」など、いろんな意見がその場で出されました。そこからみんなのアイデアを、ぼくや徳毛社長、朝日新聞社の高橋さん、村山先生やジェフ・バーグランド先生など京都外国語大学の先生がた、そして学生自身で議論し、最終的にアディが提案してくれた「のれん」で行くことが決まりました。

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のれんについて議論しているなかで、とくに興味深かったのは、イギリス人であるアディの目線で語るのれんです。彼女から見てのれんというのはまず「お風呂屋さん」、つまり銭湯のイメージがあるということ。ぼくなどからするとのれんといえば「のれんを守る」「のれん分け」などの言葉からイメージするように、老舗の旅館や和菓子屋さんというのが先で、どちらかというと銭湯ののれんは安っぽいというと語弊がありますが、そこまで最初に思い浮かぶものではなかったので印象に残りました。
それと、これは銭湯のイメージとも重なるのかもですが、のれんの役割として彼女は当初「目隠しや立入禁止を意味するもの」だと考えていたそうです。扉は開いていてのれんの下から店内の様子がチラッと覗いているのに、それを隠している、あるいは遮断しているように映る、つまり「入ってはいけない、見てはいけない」というサインなのだろうと考えていたというのです。なので、日本人の常識である「店の入り口にあってそこをくぐって入るもの=入口」という発想とはまったく逆のイメージで外国人に伝わっているということがわかって、これはまったく新鮮な驚きでした。そういったこともあり、この「のれん」ネタでいこうということになったのでした。

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で、3月後半から4月いっぱいをかけて、学生たちにはフィールドワークと称して京都の街で自分の目についたのれんを見つけてくることをしてもらい、みんなが街で撮ってきたのれんの写真を見ながらあらためて議論しました。そして役割分担や細かな構成内容、取材先の選定やアポどりの段取りなど、なんどもなんども打ち合わせを重ね、少しずつ肉付けをしていきます。学生サイドとしては自分たちのアイデアが具現化し、目に見える形になっていくので楽しかったでしょうが、ぼくにしてみればやるべきことが明確になるにつれ「ああ!これはけっこう大変だなあ」というのが実感されていくので、ちょっとビビっていた時期ですね(笑)。

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とまあ、ひとまずやるべきことは決まったので、まずみんなには取材先へのアポ入れを自分自身でやってもらいました。ひとまずアポどりに使うメールの定型文をぼくが作って学生にデータで渡し、それを自分たち用にアレンジして書いてもらうことにしました。それ以外にも応対にあたってのセオリー、わからないことや不測の事態があった時の対処法など、さまざまな取材時のノウハウを伝授して、実行してもらうだけでも、けっこうたいへんな作業になりました。カジュアルな雑貨屋さんなどはメールで若い店長さんがサクサク対応してくれるところもありますが、老舗の和菓子屋さんなどはウェブもメールもないところもあり直接伺って取材の趣旨を説明したり、大きな会社の場合は東京本社の許可が下りるのをハラハラ待ったりと、まあわれわれライターが経験することをね、ひととおり体験してもらったというわけです。

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それでも学生たちはみんな、とくに大きな問題も失敗も起こすことなく、ちょっとこっちが拍子抜けしてしまうくらいに、じつにうまくやり抜けてくれました。というのもじつは「失敗から学ぶ」を実践してもらえるように、責任問題が起きない程度にわざと曖昧にして失敗できる余地を残してあったのですが、その余地に学生自身が気づいて学生のほうから質問してくれたり、うまく自分の機転で埋め合わせたりしてくれて、なんとか自分たちで乗り越えてくれたので、ああいまの学生さんはつくづく優秀なのだなあと思った次第なのです。

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また今回の企画では、一部を除いてほぼすべての取材撮影に立ち会いました。紙面スペースの都合上そこまで突っ込んだ取材ができるわけではなく、書く内容も質問内容も限定的なものになることがわかっていたため「まあいざという時は自分がかわりに聞けばいい」くらいの気持ちで構えてはいたし、あえて質問シートを事前に作ってきなさいとかいった指示は出さずに、学生たちがどうするか?と見ていたのですが、みんな事前に質問をちゃんと考えてきてくれていたし、さらにはメンバーの中で一番最初に取材を担当した中井さんは「思ったより聞き出すのは難しいので質問を多めに考えておいたほうがいいよ」という具合に、取材時に感じた課題を連絡用のグループLINEでこれから取材に行く学生に向けて共有してくれたりもしました。これはオッさんにはなかった発想で、なるほどなー、ティーンネイジャーの頃からSNSスマホアプリがある世代だもんなーと思わされました。

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そして、今回の最大のトピックはなんといっても英文原稿のネイティブチェックです。アディはイギリス人なので、彼女には最初から英語で原稿を書いてもらいました。それから他の日本人の学生には、まず日本語で書いたものをぼくがチェックし、OK出たものから取材先にチェックに回します。そのうえで最終フィックスされた原稿を自分で英訳してもらい、それをうちのネイティブチェッカーであるリッチ先生がチェックするという流れで作業することにしました。
おもしろかったのは、日本在住経験の長いリッチが「まあこれならじゅうぶんかな?」といったんOK出した表現に、留学生のアディが「いやこれでは外国人観光客にはわからないのでは?」と表現を再検討したりして、リッチも「ぼくも日本人の感覚がわかりすぎるから、ちょっと甘くなっちゃう部分があるかもなあ」と笑って話していたことでした。

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ともあれ、当日来れなかった横山さんをのぞき、4人の学生とリッチとぼくとで、じつに4時間以上にわたって行われた英文チェックミーティングによって、この4ヶ月半の長きにわたって進められてきた企画の英語原稿が、いよいよ完成しました。

撮影は京都精華大学卒業生の写真家・平居紗季ちゃんが担当してくれました。直前までスケジュールが決まらないこともあるなか、のべにして合計12日もの出動というムリをお願いしたのですが、快く引き受けてくれ、とても助かりました。

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また、デザインはうちの奥さんが担当しています。「文字が多いっ!」とデザイナーらしくブツクサ言っていましたが、最後は手書き文字などを活かして楽しくまとめてくれて感謝です。

取材先も多いし、学生さんに指導しながらの作業で、かつカメラやデザインなどもENJOY KYOTOのコアメンバーではない人たちなので、指示も細かくしないといけなかったりで、実際にはわずか1ページではあるものの作業量としては6ページ分以上くらいの労力を使いました。でも、たくさんの人たちと関わりながら紙面づくりができたことはとてもいい経験でした。ちょっと学祭っぽくってテンションが上がってる自分もいました。ものづくりの基本はこうだよなあという感じも、ちょっと思い出したりしました。

そして、それぞれの取材先に対して学生自身でそれぞれ納品にも行ってもらいました。「お店のかたにもすごく喜んでもらえた」という報告もすでに届けてくれました。自分で選んだ取材先に自分でアポを入れて、自分で質問を考え、取材をして、訂正のやり取りを経て、最後に自ら納品に行く。そこで感想を聞く。ここまでがライターの仕事だとぼくは思っているので、それをそのまま体験してもらえて、ぼくもうれしかったです。それになにしろここで紹介したお店の情報はネットで拾えても、そのお店ごとののれんの由来をここまで書いた情報は、たぶん他にはないです。だから胸を張って自分の仕事だと言っていいものにはなっていると思います。本当はもっと深く掘り下げたかったですけどねー。

それで、最後にブログタイトルにふさわしく「まえがき」ぽいことを書きます。

いまぼくは個人的に京都造形芸術大学の空間デザイン・コースで准教授の酒井洋輔さんやHanao Shoesを作った学生たちと一緒に、とあるプロジェクトを進めていたりもしています。
今回の京都外国語大学のコラボをきっかけに、たとえばいつかENJOY KYOTO内にそういう「大学生が大学の垣根を超えて協働できるプロジェクトチーム」を立ち上げ、外国語に強い学生、文化・芸術・デザインが得意な学生、テクノロジー・IT系に強い学生、産業政策に強い学生たちがそれぞれの研究分野を生かしながら、横断的にプロジェクトを企画立案し、事業として起業する「スタートアップ・スタジオ」みたいなものができたら面白いなあ、なんてことも考えたりしました。
いつかそんなプロジェクトが動き出したら、またここで報告したいと思います。

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現実でも非現実でもない切実

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結婚したときに奥さんのご実家から贈り物でもらったサツキやナンテン、カネノナルキなどの植木を、ベランダでもう10年ほど毎朝水をやり雑草を抜き、剪定をしたりして育てている。わーっと咲いてワンシーズンで終わりという花なんかよりは、長い時間かけてこじんまり成長する植木とかを育てるのがいい。新芽が出て、葉が茂って、葉が枯れて、裸になって、また春に新芽が出る。くりかえしの美しさ。ぜんぶ知ってる。ぜんぶ見てきた。その過程がぜんぶないと、美しくないんだということが、木を育てていると身にしみてよくわかってくる。子供を育てるのも似たようなところはあるかな。

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そういえば先日録画していた「写真家 荒木経惟 77歳の切実」を観た。荒木氏の言葉を遮り続ける満島ひかりさんの語りや解釈は、ちょっと過剰で余計に感じたけど番組としてはとてもよかった。荒木氏の「切なさが感じられない写真はダメ」という言葉が心に残った。まあ、そうだな。だって写真は、遠い未来に過去になるはずのいまを撮っているんだもの。番組内で荒木氏は「もしいま一点選ぶとしたら」として陽子夫人がソファで彼の隣に座ってどこかをじっと見つめている瞬間を撮った写真をあげてこう言っている。

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幸せな時なのに、彼女、顔が一人なんだよね。孤独感が写っている。俺がこんなに愛しているのに向こうに通じていないというのが写っている


まあ男にとって恋愛というのは、基本的にそういうものだなあ、と思う。

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荒木経惟は妻の死後、ベランダから毎日同じ空を繰り返し撮っていた(それはたしか桑原甲子雄が先にやっていて、荒木氏もそれは知ってるはず)。それらの写真が、すごくいい。ぼくは荒木氏の写真のなかではそういう写真が好きだ。なんでもない空なんだけど、だからいい。視てる人(写真家)の悲しみが、じわーっとその空に広がっていくのがわかる。それは涙がこぼれそうになって、慌てて顔を上げた時に見えた空の感じなんだろうと思う。
荒木経惟という人は、ああいう見た目で写真もどぎついものが有名でエキセントリックなイメージなんだけど、本当は悲しみの人なんだと思った。「父と母と妻の死に顔を撮ったら誰でも一人前の写真家になれる」なんて言ってたけど、これも実際に父と母と妻の死に顔を撮った彼なりの、悲しみの表現なんだろう。そういえば彼は糸井重里さんとの対談でも語っているが、愛妻の陽子さんが亡くなった後で糸井さんはじめ仲間らが「励ます会」を開いたところ、荒木氏はみんなにこう言い放ったという。

俺はいま、せっかくいい感じで悲しんでんだから励まさないでくれ

その感じも、すごくよくわかる。
www.1101.com


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なぜなら「遠い未来に過去になるはずのいま」というのは写真の本質であると同時に、ぼく自身の世界の見方とも重なっていて、若かりし頃に自主映画作品を撮ったり物書きとして脚本なんかを書いていた時も、それから中学生とかで詩や日記を書いていた時も、さらには保育園で「ああこの子がのちに初恋の娘になるのかあ」なんて考えていた時も、ぼくはいつも現在を過去として見ていたように思う。それはいまも、かな。それが創作のひとつの基準になっていた。

変わったことといえば、若い頃は春の騒々しくてどこか狂った感じが好きではなかった。むしろ秋の切なさ、切実さのほうに共感を抱いていた。秋冬こそ死や終焉をイメージする季節なんだと。でも歳をとると春の儚さに、グッとくるようになった。というか、春の切なさがわかってきた。春は始まりの季節ではなく、終わりのさらにその後、なのだ。それが木を育ててわかった。自分の死後に、子供たちの生きている世界を見ているような感覚とでもいうか。それはまさに、現在を過去として未来から見ている「あの眼差し」のことなんだと思う。

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秋に葉が枯れ、冬に裸木になった枝から、春に新芽が出てくる。しかし、それは同じように見えて実はまったく別の新しい命が生まれている。みんなが毎年見ている桜も、同じ木から同じように桜が咲いているように見えるけど、あれも実はひとつひとつみんな違う花であり、違う風景なのだ。
だから春は誕生の季節であると同時に、死後の再生の季節でもある。それゆえにどこか非現実的で、写真の中の自分や鏡の中の自分を見ているような、フィクションのそれも二次創作の世界であるかのような、心地よい、よそよそしさがあるのだと思う。この世にいないものとしてこの世を見ているような眼差し。それが春の物憂さや切なさ、現実でも非現実でもない「切実さ」の正体ではないか。

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風情の正体


「芝浜」 -- 七代目(自称五代目)立川談志(2001年版)


大晦日ということで、もう日本酒を呑みながら「芝浜」を見ています。まあいろいろ意見はあるでしょうが、ぼくは立川談志さんのこの2001年のよみうりホールのやつが好きです。上手いということでいえば、もっと上手な噺家がいると思いますけど、談志の芝浜は、真に迫っているというか「ダメな旦那を上手に操る賢い女房」という分かりやすい構図を捨ててしまって、女もめっぽう弱い人間として描かれる。ダメな男とダメな女。「まあそういうわけだからさ、なんだかわからないけど、まあうまくやってこうや」みたいな。これこそ談志の落語の真骨頂というか、談志曰くの「業の肯定」であり、「人間はダメなものであるということの肯定」だとぼくは思っています。

で、この談志さんと手塚治虫さんのいつだかの対談で(たぶん80年代ごろ)当時、落語が若い女性に人気があるらしいという話題の中で、手塚さんがさらっと「でも若い人にとっては落語はナウいになっちゃうのよね」と言うんです。ああ、これはすごいなあとね、思いました。この人は本当にすごい人なんだなあと。この時点ですでにいまの伝統文化が抱えている問題点の本質をひと言でズバッと言ってのけてしまっているなあと思うわけです。

そもそも考えてみればやれ伝統文化だ、しきたりだなんて言いますけれど、去年のENJOY KYOTOの新年号で紹介したとおり、初詣だって庶民の習慣として本格的に広まったのは交通が発達してからで電鉄会社の乗車促進施策だったという話もありますし、おせち料理だって起源そのものはかなり古くからあったとはいえ、本当に庶民に広まったのは江戸末期のことであり、いまの形に近いおせちになったのは戦後のことだともいいます。もちろんだからといって、なにも伝統なんてものは守らんでいいというわけではないし、伝統文化はつねに時代に合わせてアップデートしてきたことで、流行の淘汰から生き残ってきたということは百も承知なわけです。京都にいるとそういうことがよく分かります。

ただ、いま京都に起きているさまざまな「伝統文化の再発見」とか「リブランディング」とか「伝統とデザインの出会い」みたいなものは、それこそ手塚治虫さんのいう「ナウいになっちゃってる」になっちゃってるんじゃないかと、そろそろ振り返って考えるときに来ているような気がしています。じつはENJOY KYOTOをやっていて、そのことをずっと感じていました。ENJOY KYOTOで紹介した伝統と現代生活を融合したチャレンジをしている職人さんやアーティストの人たちも、そこを苦心しながら製作されているということは、ひしひしと伝わるわけです。みんな手塚治虫さんのようにうまく言語化できないだけで、実際にそこに身を置く者であれば、おそらくそのことは自ずと問い詰めてゆくことになるからです。

では「伝統の正しい継承」と「ナウいに堕してしまうもの」の境界線がいったいどこにあるのか?もちろんそんなことは、このぼくにすぐわかるものではありません。ただそのヒントのひとつが「風情」なんだろうと思っています。風情を字引で引きますと

1 風流・風雅の趣・味わい。情緒。「風情のある庭」
2 けはい。ようす。ありさま。「どことなく哀れな風情」
3 能楽で、所作。しぐさ。
4 身だしなみ。

とあります。

では、またしても辞書で引いでみます。こんどは英訳辞典です。

風情=taste

さて、どうでしょうか?Japanese tasteで果たしてこの風情という言葉が持つ風情を正しく伝えられるんでしょうか?「風情」はとっても翻訳しづらいもののひとつです。なぜならここでいう風情はそのまま「日本らしい風情」のことだからです。「風情的」なるものはおそらく西洋にも中東にも南米にもあります。それは旅情だったり郷愁だったり。nostalgiaでありtraditionでありethnicでありemotionでありatmosphereでありmoodでもある。でも日本語でいう風情は、それぞれひとつの単語では表せない情緒のことです。

で、おそらくぼくが感じている違和感は、いま京の風情が、単なる「Kyoto Taste」になってしまっているのではないか、ということです。たしかに伝統文化を意識した取り組みがいろんなところで繰り広げられ、建築にしろ工芸にしろデザインにしろ表面的には伝統を継承しているかのように見えます。
でも本来「風情」として訳されるべき言葉は決してひとつの単語でありえないのと同じように、どこか安易というか「風情ってtasteのことでしょう?」とでも言いたげなイージーな翻訳のような空気が広がっているようにも感じています。
ただし、それは決して「本物主義」ということでもないんです。うまく言えないのだけど、安物の素材を使っているものは偽物だからダメだということでもないんじゃないかなと思います。

わかりやすくいうと、ずっと前から思っているのですが、お正月に聴きたい音楽がないなと思うことです。もちろん雅楽(なぜかCDを持っている)とかお琴の「テン、テケテケテケテン」みたいなのはお正月風情を感じる音楽にちがいないわけですが、はたして好んでアルバム一枚を聴き通す気になるかといえばそういう人は少ないだろうと。少なくともぼくにはBGM的な聞きかた以外、いまのところできそうもありません。かといってウィーンフィルニューイヤーコンサートのCDはどうかというと、たしかに年初の好例としての新年感はありますが、お正月の風情とはまったく異なるものです。そこでずっと以前のことなのですが、いちどいろいろ家のレコードやCDを片っ端から試してみて、たどり着いたのがフェイ・ウォンでした。もちろんぴったりとまではいかないにしても、どこかしっくりくる感じがしました。キリッと寒いお正月のお昼間に、日本酒呑みながらボーッと聞くとしたら、このへんがいいなあ、と。そしてこういうポップスがいまの日本にはあるかなと見渡してみて、残念ながらないなあと思うわけなのですが、このエピソードは風情の話として理解しやすいのではないかなと思います(しにくいか...)。


【我願意 】王菲


ちょっと余談を挟みましたが、じゃあつまり「風情の正体」とはなんなのか?いまのところ答えはありませんが、ぼくはつまるところ言葉の問題だというふうに捉えています。たとえばいまの若い人は落語に出てくる言葉はおろか、もう夏目漱石の小説でさえも、ほとんど現代語訳なしでは理解できないのではないかということ。風情の問題は言葉の問題に集約されていると、物書きであるぼくはうすうす感じています。そしてそれは翻訳も含めての問題です。風景も音楽も匂いも味も、そのものの魅力とは別に、基本的には言語に集約されることで人は文化として受け取っている。なんとなくSNSや映像メディアの隆盛で、文芸批評や評論はじめ言葉の力は衰退していますが、ぼくは来年以降、そうした言語のメディア(ブログやなんかとは違うもの)が再び力を取り戻すのではないか(東浩紀さんの「ゲンロン0」や小沢健二さんの復活などはその予兆?)なーんてことを考えています。とまあこれもまたぼくの大好きな余談の類。

ともあれ、これは2018年の宿題として書き留めておくためのエントリです。何か披露する結論などはありません。ただ、来年の仕事は風情の正体を探すことになるでしょうし、振り返ってみればENJOY KYOTOを通じてずっとやってきたことも、じつはそれだったような気もしています。年々、年の瀬やお正月の風情は、街から失われていますが、それは決して街並みや見た目のせいだけではなく、言葉の問題であり、すなわちアイデンティティーの問題なんだろうと思います。明日すなわち元旦である、2018年1月1日に配布が始まる新年号でも、そうした課題を感じながら編集しました。テーマもそうした課題を反映したものになっています。それはまた来年のお楽しみに。ではみなさん、よいお年を。

フリーになって5年たって、5年後に読み返したいささやかな「まえがき」。

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これは子どもの頃のぼくの写真。たぶん5歳くらいだと思います。フィルムの質感がいいですね。じつはいま4歳の次男がこれにそっくりです。彼が拗ねたり、駄々をこねたり、母親に反抗したりするのを見るたびに、ああ自分もまったくこのとおりだったし、たぶんそれは45歳になったいまだって、なーんにも変わってないなあと思うのです。で、なんでこの写真を貼っつけたかというと、このエントリのテーマが「初心」だからです。

5月から書き連ねてきた宇治特集号セルフレビューが中断しておりますが、せっかくの記念というか節目なので、ちょっと別テーマでブログを書いとくことにしました。

じつはこの7月1日をもって、フリーランスになってちょうどまる5年を迎え、今日から6年目の始動となりました。フリーになった2012年7月当時にも、それから5年を迎えたいまも「なんかパーティーめいたことやれば?」という声もあるにはあったのですが、まあ、とくにどうってことないふだんどおりの月曜日です。そのほうが自分らしいかな、とも思います。
でも、初心忘るべからずなので、会社辞める報告をしたブログ置いときます。このエントリーをもって、このブログをスタートしたんですよね。

naoyamatsushima.hatenablog.com

いま話題の元電通関西の田中泰延さんは「青年失業家」と名乗ってますが、ブログ読むと当時のぼくも「ハイパーメディアフリーター」とかなんとか書いちゃっていますね(笑)。

これを書いた当時は当然のことながらまだENJOY KYOTOをやることになるとは思っていなかった。じつは当時のこのエントリーにも書いているとおり、なにをやるかも決まっていなかったし、仕事が入ってくるメドも立っていませんでした。さらには自分なりの義理もあって、もといた大阪の広告制作会社で受けていた仕事については、少なくとも一年は断ろうと決めていたし、収入はゼロからのスタートだという覚悟を決めていました。しばらくはけっこうキツかったですね。それでもなんとかかんとかやってきて、まあいまもってあの時に辞めてよかったなと思います。思えています。そしてその理由も、やっぱり当時このブログに書いたとおりです。

とくにポートフォリオを作ったり営業活動めいたことなんかもまったくしてこなかったにもかかわらず、こうしてお仕事を定期的にいただいたり、声をかけていただいた人たちに対しては、とにかく感謝しかないです。とりあえずリヤカー引いたり釘拾いをせずに済んでいるのは、お仕事をくれている人たちのおかげです。本当にありがとうです。
それどころかENJOY KYOTOではくるりつじあやのさん、岡崎体育さんといったミュージシャンや、各分野でのトップアーティストや職人さんにお会いしてお話を伺うことができたし、なにせパトリス・ルコントに単独インタビューできるなんて機会は、おそらく以前の仕事を続けていたらまず考えられなかったろうと思います。αステーションのラジオ番組にもなんども出演させていただいたりもしましたしね。

またそれ以外の広告の仕事でも、京都精華大学のネット記事の仕事としてまたもやくるり岸田繁さんに取材をさせてもらったり、商品のブランディングやプロジェクトの企画から携わる仕事をさせていただいたりしています。いまもこうやって関西のみのお仕事で、しかも個人でコピーライターという仕事をさせてもらっていること、続けさせてもらっていること自体に、すごく驚いているとともにとても感謝しています。

ちなみに、営業活動をしてこなかった理由はイヤな仕事はしないために辞めたのだから、しばらくはイヤな仕事はぜんぶ断ってやろうと思っていたから。「仕事ください」と出向いといて「イヤな仕事だから」と断ることは、さすがにできないなーと思ったからです。
ともかく、とくに戦略もマーケティングプランもなく、ただ自分の経験と勘と嗅覚を頼りに、こっちにいい水脈があるはずだとか、こっちに行けばきっと道が開けるはずだ、とやってきてそれで大きくは間違ってこなかったというファクトが、いまは大きな自信になっています。

もともと人に指図されて素直に聞けるタイプでもないし、頭をぶつけながら、道に迷いながら、自分で自分を納得させながらここまでずっと進んできたので、これからもそうやっていこうと思います。
そして。10代の頃から、節目節目でドカンといままでの積み重ねをうっちゃるようなことをやったり、このままいけば安定するというところで突如として方向転換して違う道に進んだりしてきたものの、後から見ればそれが結果的に良かったりもしたので、この6年目の始動にあたっても、ちょっと動きを変えてみようかなと、いろいろ考えていたりします。

とりあえずは(いまさら地味で、かつ低い目標設定ではありますが)twitterのフォロワーを今年中に1000人以上にするという目標は掲げています。それなりに努力もしています(そういえばいま話題の小池百合子東京都知事は、なぜかぼくがtwitter始めた2009年ごろからぼくをフォローしてくれています(笑))。
なぜいまごろになってこんな目標を立てたのかというと、まずもって自分はもうメディアの世界でもそろそろ古い世代になってきてると実感することが増えてきた、ということがあります。とりわけ、いわゆる若い世代を中心にしたネットライター界隈の人たちを「なんだか近ごろバズることが目的化してるぞ!」などとちょっと遠目に見ていました。なんかそういう炎上上等みたいな、ネットカルチャーとは距離をとってきたわけです。
それにそもそも東京というのは、たくさんの人とたくさんの企業本社とたくさんのメディアが集まり、それに伴ってお金もたくさん集まっているもんだから、なんとなく盛り上がってるようには見えるけど、そのじつとっても小さなコミュニティの単なる内輪ネタ、楽屋話じゃないかとね、それはもうずっと、ちょっとバカにしてきたんです。ああいうのはちょっとどうも、と。

でも、です。あるときに、まあそれを言うのならまずオマエがバズらせてみろよ、と自分自身に対して思ったのですね。そうやってキライな土俵から逃げてないでやってみろよ、と。まずはせめてフォロワー1000人くらいは超えてからモノ言えよ、と。それは誰かにそう言われたわけでなく、突然そう自分で思ったのです。
こないだ岡崎体育さんもあえて宇治から発信することの意味についてお話しされていましたけど、自分もそうやってただただ東京を冷笑したり、ましてや敵視したりして距離を置くばっかりじゃなく(京都最高!地方万歳!ってのも、それはそれでやっぱり閉じていると思うんですよ)、むしろ東京のやりかたでもって東京以外から成功事例を作れないもんかと、そんなことをボヤボヤ考えているわけなんです。
あとまあENJOY KYOTOでは英字メディアとして海外につながる窓も開かれているわけだから、たとえば巨大都市にして世界の田舎である東京(また悪口言ってる!)との差異でいえば、京都らしい風穴の開けかたってものが、それはそれであるんじゃないかと、そんな風にも思っているんです。

そういうわけで誰かが言ってた「クリエイティブは、真夜中の孤独に耐えられる人から生まれる。サロンから文化は生まれない。歴史は夜作られるとはそういうこと」という至言に首がもげそうなくらいに強く頷いてしまう根っからの職工カタギな自分としては、引っ込み思案でついつい家で深夜に飲みながら本を読む生活になりがちだったりはするのですが、たまには酒場にも出向こうとも思うのでよかったらまた誘ってください。次の5年、つまりは10年目には海外から英語でエントリーを投稿してたりできるよう、がんばります。なーんて久しぶりにブログタイトルの「マエガキ」らしいエントリーになったところで、おしまい!

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その5〜 「岡崎体育 少年時代からの夢を海外観光客にも届けたい」

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まさに本日ニューアルバム「XXL」をリリースした岡崎体育さんの記事です。あの昨年話題になった「MUSIC VIDEO」の冒頭のシーンのロケ場所でもある太陽が丘の同じ場所でロケ撮影をしました。これはこの取材が決まった時から決めていたことでした。
記事タイトルにある「Walking the talk」について、じつは「有言実行」という意味が込められています。これは小学生の頃すでに将来ミュージシャンになると卒業文集に書いたり、27歳までにメジャーデビューすると親に約束して、それを実現したりというところから、岡崎体育さんの人となりをぼくなりにあらわした表現でした。翻訳をやってくれているメルボルン出身でうちの長男の親友のお母さんでもあるミケラが有言実行を「Walking the talk」と表現してくれたのですが、ネイティブチェッカーである同じくメルボルン出身のリッチも絶賛していました。こういうフレーズはなかなか日本の学校で習う英語にはでてこないフレーズで、かなりしゃれた表現になっていると思います。

さて、岡崎体育さんについては、たぶん多くの人と同じでその「MUSIC VIDEO」のブレークをきっかけにその存在を知りました。話題なのでと見てみたらビデオの内容そのものよりは「あ、これ宇治やんけ」「太陽が丘!」「あすこの駐車場やん」「この堤防あそこらへんやな」「村澤医院て(笑)」ということばっかりが気になって、最初は内容がまったく頭に入ってこなかったのを覚えています。だからぼくの中ではおもしろいミュージックビデオの人というより先に「宇治の人」という印象が強く残ったのでした。

貼っときますね。


岡崎体育 『MUSIC VIDEO』Music Video


あと、自宅で仕事をしていたらうちの息子ふたりがかっちょいいラップ調の歌を歌っているので「なんやそれ?」と聞くと「ポケモンの歌」というので「へえさすがにキョービはポケモンの歌もラップかあ」くらいに思ってて、それでたまたま彼らが見ているときに一緒に見てたら「あれ?これ岡崎体育やん」と気づいて。そうなんです。なので岡崎体育さんはうちの息子らも知らずにファンだったわけでした。ちなみにうちの息子らはぼくの影響でくるり小沢健二ビートルズやといった曲をさらりと鼻歌で歌うことができます。そのなかでも、いまいちばんのお気に入りは岡崎体育さんだったわけなのでした。


【公式】アニメ「ポケットモンスター サン&ムーン」 ポケモン×岡崎体育 特別MV(フルバージョン)


そういうわけで、そもそも宇治特集をやるにあたってお茶関連は外せないとして、個人的にはそれ以外のテーマをひとつどうしても入れときたいというのがありました。というのも、自分がリアルに宇治で育った人間のひとりとして、宇治茶平等院以外の宇治をきちんと描けないかという思いがあったから。住んでいた自分だからこそ知っている宇治の顔、です。そしてそれはちょうど昨年にくるりの岸田さんがnoteの記事で書かれていたことも念頭にありました。

note.mu


それプラス、この前後にちょっとtwitterで岸田さんと宇治についてやりとりさせていただいた経緯もありました。郊外のニュータウンでとにかく坂道が多くて夕日が綺麗な街だったなあということ。小規模の鐵工所とかがあって、ゲーセンがあってヤンキーがいて。ぼくの実家ももとは木幡池のほとりにあった田んぼを壊してできたマンション。それからニュータウン開発が続々と進んでいって、周囲の田んぼは続々と空き地になり、そして空き地は住宅やマンションになった。小学校の頃は一学期に一回は転校生がやってくる感じだった。その中の石川県からやって来た女の子に恋をしたりもしたなあ(ぼくはどうも転校生に恋をするクセがあった)。青春時代を過ごした街というと聞こえはいいのですが、要するに自分が何者でもなくてどうしていいかわからなくて何もかもうまくいかなかった時代を過ごした街でもあるわけです。でもだからこそ愛おしいというのもあると思うのですね。

で、そういう感じというのは、とりわけ岡崎体育さんの「鴨川等間隔」という曲からすごく強く感じ取れるんですね(この曲は今日発売の最新アルバムに収録されてます)。


岡崎体育 - 鴨川等間隔 【MUSIC VIDEO】


ちなみにすこし脱線するとぼくにとってはそうした宇治の記憶の多くを占めるのは、ちょうど70年代の終わりから80年代半ば。ドリフ・欽ちゃんの時代からひょうきん族漫才ブームへと人気番組は移り、糸井重里さんやらYMOやらが活躍。MTVが隆盛を極めつつ、一方ではアズテックカメラとかザスミスとかキュアとかの英国ニューウェーブものも聴きながら、西海岸からはヘビメタブームも始まっていました。六地蔵にあったRECというレンタルレコード屋さんによくレコードを借りにいき、友達と5枚ずつ借りて互いに5枚×2でカセットにダビング。そうすれば5枚ぶんのお金で10枚のレコードをダビングすることができるから。そんな時代でした。島田紳助さんのハイヤングKYOTOを毎週土曜日深夜に聴いてた。懐かしいなあ。

ともかく、そういう幾つかの伏線もあって、それでどうしてもここは岡崎体育さんをこの宇治特集の中に入れないわけにはいかないだろうと、これはもうどんどん自分の中でそういう方向になっていったんです。はじめはいろいろ人づてにコネクションを探っていたのですが、最後は正攻法でウェブサイトからメールで企画書を書いてお送りしたところ、マネージャーの松下さんから快諾のお返事いただき、さすがにその時はかなりテンションが上がりました。その後も松下さんにはいろいろとお世話になり忙しいスケジュールの合間を縫って様々なご協力をいただきました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。

で、ようやくたどり着いたインタビュー当日は、まさかの雨。しかも土砂降り。ご本人も「撮影の日に限って雨や曇りが多い」とおっしゃってましたが、ぼくもドがつく雨男。そこで思いついて、当日の朝に伏見のコーナンで黄色の傘を買って撮影にのぞむことにしました。この黄色い傘は実は児童用のものなんですが、結果的にこれがけっこうハマったというか見栄えとして可愛くなって良かったなあと。思惑通りにいってよかったです。

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これがそのとき撮影で使った傘。いまは長男が使っています。


そういえばこのメイン写真の撮影がひとまず終わり、さあ移動しようとしたところで収録されたのがこの告知映像でした。これじつはこのすぐ横にぼく、います(笑)。そうそう、この時はまだ桜咲いていましたね。太陽が丘の桜はけっこう綺麗なんです。お弁当ひろげてお花見ピクニックにうってつけの場所ですよ。


ほんとはそのままそのへんでお話聞きながらトークシーンの撮影もやろうと思っていたのですが、さすがに大雨で不可能。というわけで急遽、通円さんにお願いして、同じ宇治特集号でも紹介させていただいてる宇治橋のたもとのお茶屋さんの通圓にて、抹茶ミルクなんかをみんなで飲みながらお話を伺いました。

インタビューで伺ったお話のなかで個人的に興味深かったのは「宇治という街の印象」という質問への回答が「匂い」だったこと。「川の水と草と太陽の匂い」。この匂いによって宇治に帰ってきたと実感する、とおっしゃってました。そう言われてみて、自分も確かにその感じはわかるなあという気がしたんですね。こういう答えが返ってくるとは予想してなかったので、ちょっとはじめ驚いたのですけど、すごく納得するものがありました。
ぼくが住んでいた木幡は宇治橋のあるあたりより2,3km北部になり、川からも離れているのであまり実感がなかったのですが、たしかに宇治橋のあたりは独特の苔むしたムッとする匂いがしているような気がします。山が近くてしかも覆いかぶさるように両側から宇治川を囲む形で連なっているため、水の匂いや「草いきれ」のようなものがこもるのかもしれません。上流には天ケ瀬ダムがあり、そこから放流されるとかなりの水量が流れてきます。ダムの放流の際にはたしかにぼくの住んでた地域の近く、隠元橋の付近でも「現在放流中です」とスピーカーから流れていて注意喚起していましたね。そのくらい宇治川って水の量が多く流れも強いんです。
だから水や草の匂いというのはたしかに強く感じます。それに、この号に登場する多くの人のお話に共通するものがあるとしたら「宇治川こそが宇治のアイデンティティ」ということだったので、岡崎体育さんのその「川の匂い」というのはとても説得力があったのです。

話はまたまた少し脱線するのですが、そういえばそもそもこの宇治のあたりには巨椋池という巨大な池がありました。さらに宇治川豊臣秀吉が堤防工事して治水するまでは氾濫しまくりの危険な川だったんですよね。「太閤堤」とか呼ばれてたっけな。このへんはたしか小学校の社会の授業の郷土史学習のなかで習った。槙島とか向島っていうのは「島」だったんですよ。それからわが母校である岡屋小学校の近くには岡屋津と呼ばれる港があったそうです。だから源氏物語読んだ時になぜ平安京から宇治へ向かう一行が木幡山(たぶんいまの御蔵山あたり)を越えなければいけないのか、ルート的によくわからなかったのですが、よく考えれば当時、京都市内からまっすぐ降りたところは巨大な巨椋池と荒ぶる宇治川が行く手を阻んでいたため、東側の山科から木幡を回って行かないと陸路で宇治に入ることはできなかったんですねきっと。そういうことからも宇治が「水の土地」ということはいえるんです。

話を戻しましょう。

もう一つ印象に残ったエピソード。それはタイトルのところでもちらっと書きましたが(ファンの方の間ではもしかしたら既に有名なことだったのかもしれないんですけど)ぼくはこのインタビューをするまで岡崎体育さんがかつて小学校の卒業文集で「音楽家になって世界中の人に自分の音楽を聞いてもらいたい」と書いたというエピソードはじつは知らなかったんですね。だから取材でそれを聞いてすごく驚きました。そして英字メディアの取材はこれまで受けたことがなかったという話も伺い、本当に、本当に、このENJOY KYOTOの取材はうってつけの機会なんだということに、ある種の責任感を感じるとともに、記事を見た外国人の人たちがそれをきっかけにYoutubeでミュージックビデオを見たり、CDを買って帰ってくれたりしてくれたらなあと、それは取材を決めた時よりもさらに強く思ったのでした。残念ながら校了した直後にニューアルバムの発売の情報が公開されたのでその最新情報を掲載することはできませんでした。なのでまさに今日発売の「XXL」の告知は紙面で間に合わなかったのですけど、Facebookのほうで掲載しています。

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そういえば、くるりつじあやのさん、10FEETなどを取材した京都音楽特集号を3年ほど前に作った時も「音楽土産」という言葉を使っていました。ぼく自身、新婚旅行でイタリアに行ったときにホテルで見た地元のバンドのCDを探しにCDショップに行ったり(結局売ってなかった)、イタリアのジャズを聴くとローマやフィレンツェの街並みが目に浮かんできたり、という経験があったので、京都のバンドの音楽はきっとその人の京都の思い出と結びつくだろうと考えたからです。

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だから今回も、もしかしたらENJOY KYOTOを読んだ外国からの観光客が、岡崎体育さんの音楽をiTunesなどでダウンロードしたり、CDを買って帰ったりしてくれているかもしれません。数はきっとそれほど多くはないのだろうけど、でももし一人でもそんな人がいてくれたら、ぼく自身もすごくうれしいことだなあと思うのです。
これは本当に偽らざる本心で、だからこそぼくは今回のENJOY KYOTOにおける記事を、こう締めくくっています。その文章をもってこのブログのエントリーも締めたいと思います。

「この記事を読んだすべての外国からのゲストに伝えたいのは、ぜひいちど彼の音楽を聞いてみてほしいということ。YouTubeの公式チャンネルにもたくさんのビデオがアップされている。そこで、文字通り宇治という街のそれも彼の自宅で作られた音が奏でられ、彼にしか表現できないジャンルの音楽に遭遇することだろう。そしてもし気に入ってもらえたら、宇治の旅の「音楽土産」として購入してみてほしいのだ。なぜなら遥か遠く海外からやってきたあなたがこの紙面を見て岡崎体育という音楽家の音楽を耳にした瞬間こそ、彼が遥か昔に思い描いた「世界中の人に音楽を届ける」という夢を叶える瞬間でもあるのだから」。

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