ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

フリーになって5年たって、5年後に読み返したいささやかな「まえがき」。

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これは子どもの頃のぼくの写真。たぶん5歳くらいだと思います。フィルムの質感がいいですね。じつはいま4歳の次男がこれにそっくりです。彼が拗ねたり、駄々をこねたり、母親に反抗したりするのを見るたびに、ああ自分もまったくこのとおりだったし、たぶんそれは45歳になったいまだって、なーんにも変わってないなあと思うのです。で、なんでこの写真を貼っつけたかというと、このエントリのテーマが「初心」だからです。

5月から書き連ねてきた宇治特集号セルフレビューが中断しておりますが、せっかくの記念というか節目なので、ちょっと別テーマでブログを書いとくことにしました。

じつはこの7月1日をもって、フリーランスになってちょうどまる5年を迎え、今日から6年目の始動となりました。フリーになった2012年7月当時にも、それから5年を迎えたいまも「なんかパーティーめいたことやれば?」という声もあるにはあったのですが、まあ、とくにどうってことないふだんどおりの月曜日です。そのほうが自分らしいかな、とも思います。
でも、初心忘るべからずなので、会社辞める報告をしたブログ置いときます。このエントリーをもって、このブログをスタートしたんですよね。

naoyamatsushima.hatenablog.com

いま話題の元電通関西の田中泰延さんは「青年失業家」と名乗ってますが、ブログ読むと当時のぼくも「ハイパーメディアフリーター」とかなんとか書いちゃっていますね(笑)。

これを書いた当時は当然のことながらまだENJOY KYOTOをやることになるとは思っていなかった。じつは当時のこのエントリーにも書いているとおり、なにをやるかも決まっていなかったし、仕事が入ってくるメドも立っていませんでした。さらには自分なりの義理もあって、もといた大阪の広告制作会社で受けていた仕事については、少なくとも一年は断ろうと決めていたし、収入はゼロからのスタートだという覚悟を決めていました。しばらくはけっこうキツかったですね。それでもなんとかかんとかやってきて、まあいまもってあの時に辞めてよかったなと思います。思えています。そしてその理由も、やっぱり当時このブログに書いたとおりです。

とくにポートフォリオを作ったり営業活動めいたことなんかもまったくしてこなかったにもかかわらず、こうしてお仕事を定期的にいただいたり、声をかけていただいた人たちに対しては、とにかく感謝しかないです。とりあえずリヤカー引いたり釘拾いをせずに済んでいるのは、お仕事をくれている人たちのおかげです。本当にありがとうです。
それどころかENJOY KYOTOではくるりつじあやのさん、岡崎体育さんといったミュージシャンや、各分野でのトップアーティストや職人さんにお会いしてお話を伺うことができたし、なにせパトリス・ルコントに単独インタビューできるなんて機会は、おそらく以前の仕事を続けていたらまず考えられなかったろうと思います。αステーションのラジオ番組にもなんども出演させていただいたりもしましたしね。

またそれ以外の広告の仕事でも、京都精華大学のネット記事の仕事としてまたもやくるり岸田繁さんに取材をさせてもらったり、商品のブランディングやプロジェクトの企画から携わる仕事をさせていただいたりしています。いまもこうやって関西のみのお仕事で、しかも個人でコピーライターという仕事をさせてもらっていること、続けさせてもらっていること自体に、すごく驚いているとともにとても感謝しています。

ちなみに、営業活動をしてこなかった理由はイヤな仕事はしないために辞めたのだから、しばらくはイヤな仕事はぜんぶ断ってやろうと思っていたから。「仕事ください」と出向いといて「イヤな仕事だから」と断ることは、さすがにできないなーと思ったからです。
ともかく、とくに戦略もマーケティングプランもなく、ただ自分の経験と勘と嗅覚を頼りに、こっちにいい水脈があるはずだとか、こっちに行けばきっと道が開けるはずだ、とやってきてそれで大きくは間違ってこなかったというファクトが、いまは大きな自信になっています。

もともと人に指図されて素直に聞けるタイプでもないし、頭をぶつけながら、道に迷いながら、自分で自分を納得させながらここまでずっと進んできたので、これからもそうやっていこうと思います。
そして。10代の頃から、節目節目でドカンといままでの積み重ねをうっちゃるようなことをやったり、このままいけば安定するというところで突如として方向転換して違う道に進んだりしてきたものの、後から見ればそれが結果的に良かったりもしたので、この6年目の始動にあたっても、ちょっと動きを変えてみようかなと、いろいろ考えていたりします。

とりあえずは(いまさら地味で、かつ低い目標設定ではありますが)twitterのフォロワーを今年中に1000人以上にするという目標は掲げています。それなりに努力もしています(そういえばいま話題の小池百合子東京都知事は、なぜかぼくがtwitter始めた2009年ごろからぼくをフォローしてくれています(笑))。
なぜいまごろになってこんな目標を立てたのかというと、まずもって自分はもうメディアの世界でもそろそろ古い世代になってきてると実感することが増えてきた、ということがあります。とりわけ、いわゆる若い世代を中心にしたネットライター界隈の人たちを「なんだか近ごろバズることが目的化してるぞ!」などとちょっと遠目に見ていました。なんかそういう炎上上等みたいな、ネットカルチャーとは距離をとってきたわけです。
それにそもそも東京というのは、たくさんの人とたくさんの企業本社とたくさんのメディアが集まり、それに伴ってお金もたくさん集まっているもんだから、なんとなく盛り上がってるようには見えるけど、そのじつとっても小さなコミュニティの単なる内輪ネタ、楽屋話じゃないかとね、それはもうずっと、ちょっとバカにしてきたんです。ああいうのはちょっとどうも、と。

でも、です。あるときに、まあそれを言うのならまずオマエがバズらせてみろよ、と自分自身に対して思ったのですね。そうやってキライな土俵から逃げてないでやってみろよ、と。まずはせめてフォロワー1000人くらいは超えてからモノ言えよ、と。それは誰かにそう言われたわけでなく、突然そう自分で思ったのです。
こないだ岡崎体育さんもあえて宇治から発信することの意味についてお話しされていましたけど、自分もそうやってただただ東京を冷笑したり、ましてや敵視したりして距離を置くばっかりじゃなく(京都最高!地方万歳!ってのも、それはそれでやっぱり閉じていると思うんですよ)、むしろ東京のやりかたでもって東京以外から成功事例を作れないもんかと、そんなことをボヤボヤ考えているわけなんです。
あとまあENJOY KYOTOでは英字メディアとして海外につながる窓も開かれているわけだから、たとえば巨大都市にして世界の田舎である東京(また悪口言ってる!)との差異でいえば、京都らしい風穴の開けかたってものが、それはそれであるんじゃないかと、そんな風にも思っているんです。

そういうわけで誰かが言ってた「クリエイティブは、真夜中の孤独に耐えられる人から生まれる。サロンから文化は生まれない。歴史は夜作られるとはそういうこと」という至言に首がもげそうなくらいに強く頷いてしまう根っからの職工カタギな自分としては、引っ込み思案でついつい家で深夜に飲みながら本を読む生活になりがちだったりはするのですが、たまには酒場にも出向こうとも思うのでよかったらまた誘ってください。次の5年、つまりは10年目には海外から英語でエントリーを投稿してたりできるよう、がんばります。なーんて久しぶりにブログタイトルの「マエガキ」らしいエントリーになったところで、おしまい!

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その5〜 「岡崎体育 少年時代からの夢を海外観光客にも届けたい」

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まさに本日ニューアルバム「XXL」をリリースした岡崎体育さんの記事です。あの昨年話題になった「MUSIC VIDEO」の冒頭のシーンのロケ場所でもある太陽が丘の同じ場所でロケ撮影をしました。これはこの取材が決まった時から決めていたことでした。
記事タイトルにある「Walking the talk」について、じつは「有言実行」という意味が込められています。これは小学生の頃すでに将来ミュージシャンになると卒業文集に書いたり、27歳までにメジャーデビューすると親に約束して、それを実現したりというところから、岡崎体育さんの人となりをぼくなりにあらわした表現でした。翻訳をやってくれているメルボルン出身でうちの長男の親友のお母さんでもあるミケラが有言実行を「Walking the talk」と表現してくれたのですが、ネイティブチェッカーである同じくメルボルン出身のリッチも絶賛していました。こういうフレーズはなかなか日本の学校で習う英語にはでてこないフレーズで、かなりしゃれた表現になっていると思います。

さて、岡崎体育さんについては、たぶん多くの人と同じでその「MUSIC VIDEO」のブレークをきっかけにその存在を知りました。話題なのでと見てみたらビデオの内容そのものよりは「あ、これ宇治やんけ」「太陽が丘!」「あすこの駐車場やん」「この堤防あそこらへんやな」「村澤医院て(笑)」ということばっかりが気になって、最初は内容がまったく頭に入ってこなかったのを覚えています。だからぼくの中ではおもしろいミュージックビデオの人というより先に「宇治の人」という印象が強く残ったのでした。

貼っときますね。


岡崎体育 『MUSIC VIDEO』Music Video


あと、自宅で仕事をしていたらうちの息子ふたりがかっちょいいラップ調の歌を歌っているので「なんやそれ?」と聞くと「ポケモンの歌」というので「へえさすがにキョービはポケモンの歌もラップかあ」くらいに思ってて、それでたまたま彼らが見ているときに一緒に見てたら「あれ?これ岡崎体育やん」と気づいて。そうなんです。なので岡崎体育さんはうちの息子らも知らずにファンだったわけでした。ちなみにうちの息子らはぼくの影響でくるり小沢健二ビートルズやといった曲をさらりと鼻歌で歌うことができます。そのなかでも、いまいちばんのお気に入りは岡崎体育さんだったわけなのでした。


【公式】アニメ「ポケットモンスター サン&ムーン」 ポケモン×岡崎体育 特別MV(フルバージョン)


そういうわけで、そもそも宇治特集をやるにあたってお茶関連は外せないとして、個人的にはそれ以外のテーマをひとつどうしても入れときたいというのがありました。というのも、自分がリアルに宇治で育った人間のひとりとして、宇治茶平等院以外の宇治をきちんと描けないかという思いがあったから。住んでいた自分だからこそ知っている宇治の顔、です。そしてそれはちょうど昨年にくるりの岸田さんがnoteの記事で書かれていたことも念頭にありました。

note.mu


それプラス、この前後にちょっとtwitterで岸田さんと宇治についてやりとりさせていただいた経緯もありました。郊外のニュータウンでとにかく坂道が多くて夕日が綺麗な街だったなあということ。小規模の鐵工所とかがあって、ゲーセンがあってヤンキーがいて。ぼくの実家ももとは木幡池のほとりにあった田んぼを壊してできたマンション。それからニュータウン開発が続々と進んでいって、周囲の田んぼは続々と空き地になり、そして空き地は住宅やマンションになった。小学校の頃は一学期に一回は転校生がやってくる感じだった。その中の石川県からやって来た女の子に恋をしたりもしたなあ(ぼくはどうも転校生に恋をするクセがあった)。青春時代を過ごした街というと聞こえはいいのですが、要するに自分が何者でもなくてどうしていいかわからなくて何もかもうまくいかなかった時代を過ごした街でもあるわけです。でもだからこそ愛おしいというのもあると思うのですね。

で、そういう感じというのは、とりわけ岡崎体育さんの「鴨川等間隔」という曲からすごく強く感じ取れるんですね(この曲は今日発売の最新アルバムに収録されてます)。


岡崎体育 - 鴨川等間隔 【MUSIC VIDEO】


ちなみにすこし脱線するとぼくにとってはそうした宇治の記憶の多くを占めるのは、ちょうど70年代の終わりから80年代半ば。ドリフ・欽ちゃんの時代からひょうきん族漫才ブームへと人気番組は移り、糸井重里さんやらYMOやらが活躍。MTVが隆盛を極めつつ、一方ではアズテックカメラとかザスミスとかキュアとかの英国ニューウェーブものも聴きながら、西海岸からはヘビメタブームも始まっていました。六地蔵にあったRECというレンタルレコード屋さんによくレコードを借りにいき、友達と5枚ずつ借りて互いに5枚×2でカセットにダビング。そうすれば5枚ぶんのお金で10枚のレコードをダビングすることができるから。そんな時代でした。島田紳助さんのハイヤングKYOTOを毎週土曜日深夜に聴いてた。懐かしいなあ。

ともかく、そういう幾つかの伏線もあって、それでどうしてもここは岡崎体育さんをこの宇治特集の中に入れないわけにはいかないだろうと、これはもうどんどん自分の中でそういう方向になっていったんです。はじめはいろいろ人づてにコネクションを探っていたのですが、最後は正攻法でウェブサイトからメールで企画書を書いてお送りしたところ、マネージャーの松下さんから快諾のお返事いただき、さすがにその時はかなりテンションが上がりました。その後も松下さんにはいろいろとお世話になり忙しいスケジュールの合間を縫って様々なご協力をいただきました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。

で、ようやくたどり着いたインタビュー当日は、まさかの雨。しかも土砂降り。ご本人も「撮影の日に限って雨や曇りが多い」とおっしゃってましたが、ぼくもドがつく雨男。そこで思いついて、当日の朝に伏見のコーナンで黄色の傘を買って撮影にのぞむことにしました。この黄色い傘は実は児童用のものなんですが、結果的にこれがけっこうハマったというか見栄えとして可愛くなって良かったなあと。思惑通りにいってよかったです。

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これがそのとき撮影で使った傘。いまは長男が使っています。


そういえばこのメイン写真の撮影がひとまず終わり、さあ移動しようとしたところで収録されたのがこの告知映像でした。これじつはこのすぐ横にぼく、います(笑)。そうそう、この時はまだ桜咲いていましたね。太陽が丘の桜はけっこう綺麗なんです。お弁当ひろげてお花見ピクニックにうってつけの場所ですよ。


ほんとはそのままそのへんでお話聞きながらトークシーンの撮影もやろうと思っていたのですが、さすがに大雨で不可能。というわけで急遽、通円さんにお願いして、同じ宇治特集号でも紹介させていただいてる宇治橋のたもとのお茶屋さんの通圓にて、抹茶ミルクなんかをみんなで飲みながらお話を伺いました。

インタビューで伺ったお話のなかで個人的に興味深かったのは「宇治という街の印象」という質問への回答が「匂い」だったこと。「川の水と草と太陽の匂い」。この匂いによって宇治に帰ってきたと実感する、とおっしゃってました。そう言われてみて、自分も確かにその感じはわかるなあという気がしたんですね。こういう答えが返ってくるとは予想してなかったので、ちょっとはじめ驚いたのですけど、すごく納得するものがありました。
ぼくが住んでいた木幡は宇治橋のあるあたりより2,3km北部になり、川からも離れているのであまり実感がなかったのですが、たしかに宇治橋のあたりは独特の苔むしたムッとする匂いがしているような気がします。山が近くてしかも覆いかぶさるように両側から宇治川を囲む形で連なっているため、水の匂いや「草いきれ」のようなものがこもるのかもしれません。上流には天ケ瀬ダムがあり、そこから放流されるとかなりの水量が流れてきます。ダムの放流の際にはたしかにぼくの住んでた地域の近く、隠元橋の付近でも「現在放流中です」とスピーカーから流れていて注意喚起していましたね。そのくらい宇治川って水の量が多く流れも強いんです。
だから水や草の匂いというのはたしかに強く感じます。それに、この号に登場する多くの人のお話に共通するものがあるとしたら「宇治川こそが宇治のアイデンティティ」ということだったので、岡崎体育さんのその「川の匂い」というのはとても説得力があったのです。

話はまたまた少し脱線するのですが、そういえばそもそもこの宇治のあたりには巨椋池という巨大な池がありました。さらに宇治川豊臣秀吉が堤防工事して治水するまでは氾濫しまくりの危険な川だったんですよね。「太閤堤」とか呼ばれてたっけな。このへんはたしか小学校の社会の授業の郷土史学習のなかで習った。槙島とか向島っていうのは「島」だったんですよ。それからわが母校である岡屋小学校の近くには岡屋津と呼ばれる港があったそうです。だから源氏物語読んだ時になぜ平安京から宇治へ向かう一行が木幡山(たぶんいまの御蔵山あたり)を越えなければいけないのか、ルート的によくわからなかったのですが、よく考えれば当時、京都市内からまっすぐ降りたところは巨大な巨椋池と荒ぶる宇治川が行く手を阻んでいたため、東側の山科から木幡を回って行かないと陸路で宇治に入ることはできなかったんですねきっと。そういうことからも宇治が「水の土地」ということはいえるんです。

話を戻しましょう。

もう一つ印象に残ったエピソード。それはタイトルのところでもちらっと書きましたが(ファンの方の間ではもしかしたら既に有名なことだったのかもしれないんですけど)ぼくはこのインタビューをするまで岡崎体育さんがかつて小学校の卒業文集で「音楽家になって世界中の人に自分の音楽を聞いてもらいたい」と書いたというエピソードはじつは知らなかったんですね。だから取材でそれを聞いてすごく驚きました。そして英字メディアの取材はこれまで受けたことがなかったという話も伺い、本当に、本当に、このENJOY KYOTOの取材はうってつけの機会なんだということに、ある種の責任感を感じるとともに、記事を見た外国人の人たちがそれをきっかけにYoutubeでミュージックビデオを見たり、CDを買って帰ってくれたりしてくれたらなあと、それは取材を決めた時よりもさらに強く思ったのでした。残念ながら校了した直後にニューアルバムの発売の情報が公開されたのでその最新情報を掲載することはできませんでした。なのでまさに今日発売の「XXL」の告知は紙面で間に合わなかったのですけど、Facebookのほうで掲載しています。

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そういえば、くるりつじあやのさん、10FEETなどを取材した京都音楽特集号を3年ほど前に作った時も「音楽土産」という言葉を使っていました。ぼく自身、新婚旅行でイタリアに行ったときにホテルで見た地元のバンドのCDを探しにCDショップに行ったり(結局売ってなかった)、イタリアのジャズを聴くとローマやフィレンツェの街並みが目に浮かんできたり、という経験があったので、京都のバンドの音楽はきっとその人の京都の思い出と結びつくだろうと考えたからです。

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だから今回も、もしかしたらENJOY KYOTOを読んだ外国からの観光客が、岡崎体育さんの音楽をiTunesなどでダウンロードしたり、CDを買って帰ったりしてくれているかもしれません。数はきっとそれほど多くはないのだろうけど、でももし一人でもそんな人がいてくれたら、ぼく自身もすごくうれしいことだなあと思うのです。
これは本当に偽らざる本心で、だからこそぼくは今回のENJOY KYOTOにおける記事を、こう締めくくっています。その文章をもってこのブログのエントリーも締めたいと思います。

「この記事を読んだすべての外国からのゲストに伝えたいのは、ぜひいちど彼の音楽を聞いてみてほしいということ。YouTubeの公式チャンネルにもたくさんのビデオがアップされている。そこで、文字通り宇治という街のそれも彼の自宅で作られた音が奏でられ、彼にしか表現できないジャンルの音楽に遭遇することだろう。そしてもし気に入ってもらえたら、宇治の旅の「音楽土産」として購入してみてほしいのだ。なぜなら遥か遠く海外からやってきたあなたがこの紙面を見て岡崎体育という音楽家の音楽を耳にした瞬間こそ、彼が遥か昔に思い描いた「世界中の人に音楽を届ける」という夢を叶える瞬間でもあるのだから」。

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ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その4〜 「松北園 木幡という小さな街で世界に挑むお茶屋さん」

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京阪の木幡駅とJRの木幡駅のちょうど中間あたり、なだらかな坂の途中にある保育園のとなり、旧奈良街道沿いに松北園茶店はあります。実家に住んでいた頃はしょっちゅう前を通っていたし、たしかにお茶の香りがたまにしていたなあと、そのくらいの印象でした。しかし、今回取材をしようといろいろ調べていくうちに、ものすごく由緒正しいお茶の生産者さんだったということを知り、失礼ながら初めてその偉大さを知ることとなるわけです。

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京阪木幡駅。ここから歩いて2,3分のところに松北園はあります。


そもそも木幡というのは宇治市の中では位置的にはもっとも京都市に近い北寄りのエリア。ぼくが小学校から高校までを過ごした、いわば青春の街でもあります。大人になってたまたま源氏物語を読んだ時に「木幡の山越え」の話が出てきて驚いたものだけど、その後じつは古事記を読んでみたらそこにもその名が登場するなど非常に古い土地であることを知り、さらに驚いたことを覚えています。住んでいた時は遊ぶところがまったくないただの新興住宅地という印象しかなかったけれど。

じつはBRUTASはじめ多くの雑誌などで活躍中の写真家である福森クニヒロも同じ木幡のすぐ隣のマンションに住んでいて小中高と同じ学校でしたし(高校ではラグビー部も一緒だった)、前にも書いたのだけど安田美沙子さんや坂下千里子さんも木幡でしたね。それから、いまはパリのお店にいらっしゃる枝魯枝魯の枝國さんも宇治の出身で、いちどお話をした時の印象だとけっこうどこかですれ違っていたんだろうなあと思いました。たぶん六地蔵にあったゲームセンターの桜木とかかな。あと枝國さんは有名になられる前にぼくの実家の近所にあっためちゃめちゃ亭で働いていたこともあったそうで、もしかしたらその時期にも知らずに会っていたかもしれない。そのめちゃめちゃ亭もちょうどこの4月についにお店を閉められたそうです。店長どうされてるかなあ。

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いまはなき、めちゃめちゃ亭。ここでよく飲んだなあ。


さて、前置きが長くなったけど松北園です。由緒正しいと書いたのですが、どう正しいかということを説明しましょう。北野天満宮で毎年秋に行われる神前に茶を奉献する「口切式」というのがあります。これはもともと16世紀後半に時の権力者であった豊臣秀吉が催した北の大茶会を機に開かれる「献茶祭」で使用する抹茶の原料である「てん茶」を奉献する由緒あるもので、その年の初夏に採れた茶葉を入れておいた茶壺の口をこの時に初めて切ることから、そう呼ばれているのだそうですが、その茶壺は数ある宇治茶の産地からそれぞれに用意されるんですね。で、その礼祭で真っ先に口を切られる「一の壺」にはかねてより木幡の茶が収められることは決まっており、その木幡の茶を担っているのが、他でもないここ松北園のお茶だということです。いやあ、そんなすごいお茶が木幡のしかもあのいつもよく通るあの場所で作られたなんて。これは個人的にかなりの驚きの事実でした。

松北園の歴史は古く、創業は1645年。いまからおよそ370年前のことです。以来、ずっとほぼ同じ場所にあるんだそうです。これもけっこうすごいことです。で、松北園が宇治茶の中で異彩を放っているのは、生産農家から小売販売までを一手に担っていること。じつは宇治茶は分業制が基本であり、生産農家、茶師、卸問屋がいて、最後に小売店と完全にシステム化されています。最近は生産と卸を兼ねるところや、製茶と小売を同時に担う企業も出てきてはいるそうなのですが、それでもこれほどまでの規模で、しかも古くから続けてきたところというのは松北園以外にはあまり見当たらないということでした。

取材の時に撮影用にテイスティングをされているシーンを撮影したのですが、テイスティング碾茶(てんちゃ)をお湯だししたもので味を見ます。碾茶というのは摘採まで少なくとも20日以上被覆してその生葉を蒸して揉まずに乾燥させたもの。この碾茶を石臼で挽いたものがいわゆる抹茶になるんだそうです。で、これを高温のお湯で出して味を見るのだそうです。通常、美味しいお茶は低音でと言うイメージがありますが、なぜ高温なのかというと過酷な状況で出した方がそのお茶の弱点がわかるからだそうです。
その碾茶を低音でじっくり出したものを飲ませていただいたのですが、これがものすごく美味しかったんです。お出汁のような味。「旨味の化け物」とおっしゃってましたけど、本当に旨味そのものが口の中で広がる感じ。「これでお茶漬け食うたらめっちゃ美味いですよ」とのこと。たしかに。丸っこくてとろみがあって、むかし某代理店の偉いさん位連れられて大阪のホテルソムリエが集まるワイン会で飲んだ超高級ワインの口当たりにも似ていました。

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テイスティングする社長の杉本さん。茶師というよりソムリエといった感じ。


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これがものすごい美味しかった「旨味のお化け」と評される碾茶


インタビューでお話しさせていただいた杉本剛さんは1968年生まれの48歳でいわば同世代。「人間が得意な部分は人間が、機械のほうが得意なことは機械がやればいい」という言葉に代表されるように老舗茶園の茶師というよりはきわめて合理的な企業家という印象の人で、老舗の茶店を現代的なビジネスの視点を持って眺め、職人の手技と最新テクノロジーの融合を見事に図っていらっしゃいました。
あと個人的におお!とテンションが上がった話がありました。いまから20年くらい前のこと。松北園さんが卸していたニューヨーク・ブルックリンにあるアジア食料品店に、ある日大きなリムジンが横付けされたかと思うと、店にあるだけの松北園のお茶をすべて残らず買って行った客人がいたそうです。その客人の名は、スティーブン・スピルバーグ。杉本さん曰く、いまのように世間的なブームになる前、すでにその頃からいわゆるセレブレィティが日本茶に興味を示し始めていたのだそうです。

今後について話を聞くと、杉本さんは「ティーバッグ」に力を入れていきたいと話していました。現代人の生活スタイルに合わせて、いま松北園では年間に10種類のティーバッグ商品があり、夏に水出しタイプが出てくると合計17種類もあるそうです。海外展開もしていて、今年から始まった「グローバルティーチャンピオンシップ」という世界のお茶の品評会で、松北園の玉露ティーバッグが「蒸し製緑茶」の部門で1位に選ばれています。もちろん急須で入れるのと同じクオリティのものをティーバッグに求めることは難しいのですが、その中で最高のものを作りたいと努力されています。その積み重ねの末に、最終的には日本で「お茶の間」とかつて呼ばれた家族団欒のリビングに自然とお茶が戻ってくる。そして、そのプロセスがあってこそ、次のステップであるリーフを急須で楽しむ人を増やすことにつなげていきたいと話してくださいました。
ぼくも実際にお店で買って飲んでみましたが香りがすごいです。ティーバッグとは思えない、しっかりと深みのある香りがします。

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箱もおしゃれ。

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個別包装になっている袋もかわいい。

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ティーバッグはこんな感じ。

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玉露の香りがすごいです。ティーバッグとは思えない深い香り。



ぼく自身、実家にいた頃に比べると急須でお茶を淹れて飲むことは少なくなりましたが、いまやそもそも急須を持っていない家庭も多いと聞きます。宇治という街もそうだけど、その中でも木幡という本当に自分の実家があるご近所でこんなふうに海外を相手にチャレンジしているお茶のスペシャリストがいることに、すごく感銘を受けた取材でした。

木幡については今回、他にもこの松北園さんのすぐ裏にある許波多神社も紹介していますが、なかなかにいい街ですよ。これといって取り柄はないけど、なんとなく憎めないやつ。そんな感じの街です。
実家近くでよく見知った場所で、平日昼間に取材していると、ふと高校に行く振りをして学校をサボってふらふらと歩いてたことや、喫茶店で友達と漠然とした将来の不安など、どうということのない話をしていたことがフッと蘇り、その同じ場所で自分がこうして仕事をしているのがとても不思議な感覚でした。時折ふとすれ違う木幡中学や東宇治高校の学生たちを見ては「彼らの人生はこっから始まるんだなあ」と、いちいちかつての自分の姿を重ねていました。

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その3〜 「通圓 宇治茶サーガの最新章」

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京阪宇治線の終着駅、モダンな建築がどことなく街並みから浮いている不思議な雰囲気の宇治駅を降りると、駅を出てすぐにUの字型のバスターミナルがある。ターミナル右手の宇治川沿いを歩いていくとすぐ目の前、宇治橋のたもとに通圓さんはあります。通圓さんを知らない人でも、京阪宇治駅で降りたことがある人なら一度は必ず目にしているはず。「ああ、あそこねー」という感じ。そうです。あのお店です。
通圓さんといえば、ぼくが子供の頃に茶団子をよく買って帰った思い出があります。いろいろ食べたけど、ここで買う茶団子がいちばん美味しかったからです。さすがに子ども時代に自分のお小遣いで玉露を買うほどマニアックではなかったけれど、いずれにしても今回の取材で一貫しているのは自分が子どもの頃に何かしらの形で通過している場所や、体験しているもの。そういう(それこそガイドブック的ではない)地肉となった知識や背景を共有している相手を取材先として選んでいることがあげられると思います。


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通圓さんの創業は1160年ですから、なんたっていまからおよそ850年前。平安時代の後期です。ちなみに1160年ごろの京都というのは日本初の武家政権が誕生し、平清盛が権勢を振るっていた時代です。平治の乱が起きたり、源頼朝が伊豆に流されたりしています。海外ではパリのノートルダム大聖堂がようやく着工というくらいの頃です。京都に老舗は数多くあれど、ここまで古いというのはちょっとやそっとではなかなかお目にかかれないですよね。で、今回はその24代目にあたる通円祐介さんを取材しました。祐介さん自身は若くてハンサムで、そんな長い歴史を持った老舗茶店のご当主という重々しい雰囲気はなく、物腰の柔らかいお兄さんといった感じのかた。朝日焼の記事執筆をお願いしたライターの高橋マキさんともお知り合いだったし、今回の号の他の取材先さんのリストを見ながら「みんな知り合いばっかりですね」と笑ってお話されてて終始フレンドリーな雰囲気で取材は進みました。

さて、ぼくは祐介さんからお話を伺って、さあ原稿を書こうとなった時に、まず最初にメインタイトルをどうするかを考えました。これは同時に記事全体のテーマともなるわけですから、ここがバシッと決まらないと原稿は凡庸なものになります。これはいつもそうしていることですが、ただただ聞いた話を順を追って書いたり、とおりいっぺんのことをさらっても、読者が積極的に読み進めたいと思うような記事にはなりません。だからぼくは必ず最初に主題を探します。それは「問い」を探すことでもあるわけです。そして主題はいわば道のようなものです。ここを通っていきましょうという道ですね。そしてそれは取材する前の時点からあらかじめ見当をつけておきます。資料をあたり、ざっと目を通し、主題となりそうなポイントを見つけておくわけです。現場ではそれに沿ってインタビューを行い、面白い話が出てくればそこを突っ込みます。いい話が出てくればさらにそこから記憶の抽斗を開けてもらうよう促します。

こうして事前にあたった資料には出てこない話(第一次情報)や、主題をより深掘りできる興味深い話が見つかれば、大抵それをテーマとしたタイトルを書きます。いわばキャッチコピーですね。これが決まったら、その主題とトーンに沿って、まずは荒書きとして第一稿をひと筆書きの感じでラフに一気に書いてしまいます。この時はほとんど文字数とか年代や名前の間違いとか文字統一とか細かいことは一切気にしません。とにかく一気に書く。主題と文体とリズム。それだけに意識を集中させて文章の海の中に埋没していく感じで書き上げます。それからその原稿をひと晩かふた晩寝かせて、今度は自分の文章と距離を取り、冷静な頭で読み直し、文字数やトーン、主題からブレたところなどをチェックして手を加えていきます。たいていは量を書きすぎるので大幅に削ることになります。
こういう仕事の仕方はハッキリいって効率的ではないし、時間も手間も尋常ではなくかかります。でもそうしているからこそ、ENJOY KYOTOの原稿は出来上がっているのです。いまここで書いてるようなブログの文章とは、質も時間のかけ方も全く異なるわけです。

さて、通圓さんの原稿の主題。これはだいたい取材前から目星をつけていたことなのですが、これは「宇治茶をめぐる通円家のサーガ」であると位置づけました。具体的なタイトルは「850 years of deep green 〜The epic history of Tuen's Uji-cha〜」。このタイトル、じつは日本語の段階では「850年の、深み」とだけ記しておいてあえて意図を説明しなかったんですが、翻訳を担当してくれている川元さんというとてつもなく英語力の高い女性が「deep green」というコピーの意図を、まさに阿吽の呼吸できっちり英訳してくれたのですごく嬉しかったです。ネイティブ監修のリッチもそのままこのタイトルを活かしてくれました。
あと、取材の順番でいうと通圓さんが最初だったのですが、書き始めた時点ではほとんどの取材が終わっていて、その段階で僕の中に「宇治川」というのが今号を通す隠れテーマになっていることを感じていました。いわば通奏低音のように、この宇治川の水がすべての記事のなかを滔々と流れています(表紙で数ある源氏物語宇治十帖の絵の題材の中から宇治川の入った題材「浮舟」にしたのもそのためです)。とまあ、ここまで決まれば、じつは書くのはかんたんです。逆にいえばこういう主題と物語を運ぶためのビークルを見つけるのは容易なことではありません。


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では記事の流れを、順を追って見ていきましょう。まず通圓さんの歴史は宇治川橋守としてスタートしています。それが1160年。初代が源頼政に命じられて始めたということです。橋守というのは、京都と奈良をつなぐ宇治橋を管理し、台風や豪雨の際には橋が流されるのを防ぐなどの役割を担ういわば番人のような仕事。その後、次第に宇治橋を通る人々に茶を点て、提供し始めたことで「茶飲み処」としても知られるようになったのだということです。
もともと宇治川の水は、茶を点てるのに適しているらしく、なかでもとりわけ「三の間」と呼ばれるところ、あの宇治橋の橋脚が出っ張っているところですね、そのあたりはちょうど川底から湧き出ている地下水と、上流の岩に磨かれてまろやかになった川水とが混じり合う場所であるらしいんです。それであの豊臣秀吉がですね、宇治に来訪した際に通圓さんでお茶を飲み、たいそう気に入ったため「三の間で汲んだ水で茶を点てるように」と、茶人として有名な千利休に命じ、専用の釣瓶を作らせたというわけです。で、その釣瓶はいまも通圓の店に受け継がれていて、いまも店頭で目にすることができます。けっこうフランクに置いてあります(笑)。
お店には他にも「一休さん」として親しまれている一休宗純という僧侶が当時親交のあった7代目のために残した句や木像が残されていますし、狂言にも「通圓」というタイトルの演目が存在しています。
それから長い歳月が流れた19世紀後半、明治維新とその後の近代化によってこの橋守の仕事は失われ、茶舗としての通圓の歴史が再スタートするわけです。まあ恐らくは現存する中で日本でいちばん古いカフェといってもいいんじゃないかと思うのですけど、こうして見てもお分りいただけるように、ここまで出てくるトピックや登場人物がいちいち歴史の教科書に名を残すようなものばかりなわけです。それがこの通円家というひとつの家族の歴史であるということに、なんかもうすごく驚くわけですね。で、いままだなお更新されている連載小説の、その最新章に出てくる登場人物とですね、こうやってお話をしているわけです。つくづく、京都の、そして宇治の凄みを感じてしまうわけなんです。この素直な驚きが、今回の原稿の主題をサーガとしようと思ったゆえんです。

さて、サーガを締めくくるにあたって、歴史や過去だけでなくこれからのことも書いています。たとえば、大学時代はDJとしてメトロでイベントなども主催されていたという祐介さんは、子供の頃から家を継ぐことに疑問を持ったことはなかったそうです。「というか、どの家の子も大人になったらみんな家の仕事を継ぐものだと思っていた」と話してくれました。小さい頃からお店のスタッフからも「24代目」と呼ばれていたそうですから、なおさらかもしれません。そしてプレッシャーは感じてないというよりは感じないようにしているとおっしゃっていました。確かにこれだけ名前と歴史のあるお店の跡取りとなると、考えただけで重圧に押しつぶされそうになるかもしれません。だからこそむしろ日々をあたりまえに営む。そのことの大切さをご存知なのかもしれないと話をしていて感じました。そもそもお煎茶というのもそういう日常の茶の間にあったものだったわけだし。

そうして。1981年生まれの35歳でお子さんもいらっしゃる祐介さんは、否が応でも次世代のことを考える時期にさしかかるわけです。23代目であるお父様がそうであったように、祐介さんも息子に後継をやって欲しいとは言わないと断言されていました。継ぎたいと思う環境を作ること。そのためにはいまある先代から受け継いできた財産をそのまま残すのではなく、少しでも多く増やして伝えたいと考えているのだそうです。外国人のお客さんから学ぶこと、若いお客さんからのニーズに応えること。そうした積み重ねが新しいスタイルとして24代目の歴史を作る。それを見た子どもたちは自然に興味や新金貨を持ち、自分ならもっとこんなことができる、こんな風にしたいと感じるはずだろう。そういう自然な形で家業に関心を持ってもらいたい。そんな思いがあるのかもしれないなあと感じました。しかも祐介さんは新しいことだけでなく、逆に昔ながらの製法でつくられたお茶を昔ながらの飲み方で飲むことを復活させるような取り組みにも興味を持っているということです。まさに「宇治茶ルネサンス」といえるようなことが始まることになるかもしれないわけです。

いずれにしても近代化と西洋化で日常の生活から急須で煎茶を飲むニーズが減少する昨今、宇治茶はいま大きな節目にあると思います。いままでもいろんな時代の変化やニーズの変遷、それによる好機も危機もあったろうと思いますが、このいまの節目をどう捉え、次へと繋いでいくのか。自らの子どもたちや、次世代の人たちに何を伝えられるのか?こうしたことは少なからず自分も父親としてふだん考えていることではありますが、それを生活の営みとしてだけでなく、家業としても、そして宇治の歴史とも重なりながら紡がれていく。とてつもなくスケールの大きな家族史。穏やかでにこやかな祐介さんの中に流れる、巨大な物語を感じてもらえればと思います。

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その2〜 「朝日焼 作為しない作為という極意について」

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さて、ENJOY KYOTO初のエリア特集として宇治をフィーチャーするにあたって最初に考えたことは、巻頭を飾る特集を何にするかということでした。個人的に知っているところや既に評価の定まったさまざまなお茶にまつわる人々だけでもかなりの候補があり、選考には編集部のメンバーはもちろん、お茶の京都に関わっていらっしゃる京都府や京都コンベンションビューローの方々のご意見なんかにも耳を傾けながら、最終的にはぼく自身の判断で決定しました。
まず今回の巻頭特集では通常6ページを割いているところを4ページに縮小、代わりにより多くの人々を2ページ単位で紹介していくという構成にしました。結果的にはこれは成功したと思います。

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そして、今回ぼくが巻頭特集としてピックアップしたのは、宇治に残る唯一の窯元である朝日焼 京都・宇治の茶陶 遠州七窯でした。昨年、ご長男の松林佑典さんが十六世・豊斎を襲名されたばかりということでタイムリーでもあったし、宇治だからといって最初っからお茶ということではなく、お茶を飲む器というのもENJOY KYOTOらしくっていいかなと思ったからでした。
早速、メールで趣旨などをご説明して交渉していたのですが佑典さんはちょうど3月はミラノサローネのご準備で、4月もそのミラノサローネ出席のためミラノに行かれるということでお忙しく、取材が4月の10日以降になると言われてしまいました。入稿は24日。ほぼ2週間しかなく、編集部では諦めようかという声も出ていました。

しかも、じつはこのページの原稿執筆は高橋マキ (@maki_gru2) | Twitterにお願いすることにしていました。外部のライターさんを迎えて、取材から原稿執筆までをお願いするのはENJOY KYOTOとしては初めての試み。と同時に、ぼくとしてもディレクターに徹し、取材には行くのに記事を書かないというのは同じく初の試みでした。そのページで異例の遅いスタート。これはもう無理かもしれない。そう思っていた時にマキさんから「弟の俊幸さんに先にお話聞けへんかなあ」というお話が。え?すみません、どういうことですか?こちらの勉強不足でマキさんに聞いて初めて知ったのですが、松林佑典さんに弟さんがいらっしゃるとのこと。ぼくとしてはその提案に「そうしましょう!」と即決。事前に大まかなストーリーやご用意いただくものなどを俊幸さんと詰めた上で、あらためて10日に取材撮影を行うことにしたらどうか。うん。これなら、なんとかなるかも。それでアプローチしましょうと伝えると、マキさんからのさらなるご提案。「どうせならお二人に出てもらいませんか?」。

じつは朝日焼と高橋マキさんとのあいだには不思議な縁があったようです。もともとマキさんは弟の俊幸さんと懇意にされていたそうなのですが、GO ONなどにも参加されメディアでも取り上げられる機会の多いご長男の佑典さんと、お父様で先代の十五世・松林豊斎さんと3人揃って取材をしようと、そんなお話をされていた矢先に2015年にお父様がご逝去されたため、その企画はお蔵入りしてしまっていた、ということが過去にあったのだそうです。そこで。今回の取材は期せずして実現した兄弟インタビュー。ある意味で弔いの物語でありレクイエム。そして朝日焼きの記事は数多くあれど、ご兄弟での登場というのは、けっこう貴重なことだとお二人も取材の際にお話しされていました。なんだか知らぬ間にピンチがチャンスになるパターンで、スルスルと良い企画になる期待が高まる展開で進んでいったのでした。


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水。井戸から汲み上げている。土地の恵みをたっぷり含んだ水。命を生み出す水。


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土。近くの山から掘りだす。50年前のものだそうで、長い年月寝かさなければならないのだそうだ。当然、50年後に使うための土をいま掘り出して置いておくわけだ。


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木。薪をくべて火を熾す。生命誕生を煽る焔。その源。


さて、朝日焼十六世・豊斎を襲名され、ミラノから帰国されたばかりのお兄さん佑典さんの帰りを待って行われた取材。「これが登り窯です」といって案内されたのですがその大きさにまず圧倒されました。とにかくすごい威圧感。男の子なら絶対魅了されてしまうようなワクワク感でいっぱいです。宮崎アニメに登場する大きな機械といった趣。むかしの人が作った最新型の装置。「火を入れると生き物みたいになりますよ」。弟の俊幸さんがそう話してくれたのですが、まさにそんな感じ。土と水に火が加わって形となる器という命をこの世に産み落とす子宮のような存在なのかもしれない。


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登り窯。実際にここに立つとものすごい存在感と生命力。先々代の十四世・豊斎がご自身で設計し作ったというから驚き。


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薪をくべていくための穴。


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窯の中の状態を見るための覗き穴。


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窯の内部。暗くてわかりづらいけど命を宿す場所としての侵すべからざる神聖さを感じました。


今回ぼくが(自ら書くことを想定せず聞き役に徹して伺った)インタビューの中でもとくに個人的に印象に強く残ったのは、お父様が亡くなる直前にご自身「最後の窯かな」との覚悟で臨まれた作品の話。最後とわかって挑む作品がどんなものになるのか?息子の佑典さんが強い関心を抱いていたのですが、出来上がった作品は結局のところ、まったくのふだんどおりの作品だったという。「作為しないという作為」というお父様の哲学がそこにもきちんと表現されていたというお話。さすがにこれはもう参った、という感じでした。おそらくそれこそが、お父様から次世を継ぐ息子への最後のメッセージだったのだろうなあと、父になった自分としてはそう読み取れたわけです。

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もうひとつ興味深かったのは、これまではある程度までは自由にのびのびと自分らしさを追究し、たとえばGOONなどでも現代のデザイナーとコラボすることも多かった佑典さんが、十六世を襲名したことによって、あらためて朝日焼らしさを探求し始めたという話。ふつうならまず型を学び、それを極めた上でこんどは自分の作風を築き上げていくものだと思うのですが、ある意味ではその逆。継ぐ前はそれなりに自由にやらせてもらっていたが、世継ぎとなったからにはやはり伝統ある窯元としての仕事をあらためて追究していきたいというお話。お客様は当然にして「朝日焼らしい」イメージの器を求めて来られる。その思いに応える責任を、佑典さんが負ったということではないかなと感じました。そして、だからこそあのお父様の最期の窯、まったくのふだんどおりに作為なく焼いたということの事実とその意味が、ぼくにはより強いメッセージとして思い起こされるのでした。

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佑典さんのイタリア出張、高橋マキさんとのご縁、そういう偶然がいくつか重なって、思いがけないかたちで実現した兄弟インタビュー。これらはいま思うと最初っから誰かが仕組んでいたかのように感じます。すごく細い糸の上を歩くように、小さな可能性を手繰り寄せるように、でも確実にこの成果へと導いていきました。これもまた「作為しない作為」の流れの中で生み出されたひとつの器である、というような大切な仕事のひとつとなりました。

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ネイティブ監修のリッチと、ライターの高橋マキさん。ひとつひとつ言葉を定めていく「楽しい校正」作業のひとコマ。

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その1〜

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今回はENJOY KYOTO初めてのエリア特集号として宇治をピックアップしました。なにせ新茶の季節でもありますし、今回取り上げたあがた祭りや、紙面では紹介できなかった三室戸寺のあじさい祭りなど、イベントもあります。そしてなにより、じつはぼくが小中高を過ごした青春の街でもあるわけです。
ちなみに実家は京阪の木幡駅のすぐ近くにあって、いまもそこで両親は暮らしています。小学校は岡屋小学校で中学は木幡中学(いわゆるコワチュウ)、そして高校は東宇治高校です。ちなみに安田美沙子さんは小学校と高校が、坂下千里子さんは中学と高校が同じ。しかも坂下千里子さんは弟と学年が同じなので弟の卒業アルバムにはそのお写真があったりします。

宇治というとお茶畑をイメージしますが、自分が宇治に引っ越してきてからというもの、遊び場だったお茶畑や田んぼが次々と空き地になり(空き地でまだ遊んでた)空き地に土がうずたかく積まれ(その土を滑ったりして遊んでた。しつこい)、そしてやがて土がならされてそこに家が建つ、ということを繰り返し見せつけられた記憶があります。時代は70年代末から80年代。高度経済成長からバブルへと向かう時期で、ジャパンアズナンバーワンとか不動産バブルとかそういう時代でした。
宇治という街は、住宅はたくさんあるものの遊ぶ場所はなく、ちょっとやんちゃな中学生はみんなこぞって六地蔵の桜木という有名なゲームセンターに行っていました。カツアゲされんようにとかいってちょっとビビりながらね(いまどきカツアゲとか言わへんのやろなあ)。同じ頃、京都市内にはアヴァンティやビブレといったファッションビルができ始めた頃で、京都市内に行くのはちょっと構えるというか、郊外のベッドタウンに住む田舎者としては、当時はまだ大手筋より向こうは別世界な時代だったんですよね。その辺の話もおいおい書きます。

さて、そんなこともあってなかなかに思いのこもった、力作になったと自負しております今回の宇治特集号。そうまさにこれはお仕事ではなく、作品と言ってもいいと思っています。そこで今回は特別に、このENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューしていきます。

まずは表紙。この絵は「源氏絵鑑帖 五十一巻 浮舟の巻」という絵で、土佐光則によると伝えられているものだそうです。源氏物語ミュージアムにお願いして提供いただいたものです。今回そのお願いをするために実際に源氏物語ミュージアムに足を運んだのですが、古典や宇治の地理に少しでも知識がある人だったら、けっこう楽しめると思います。はっきりいってエンターテインメントを求めて行くと拍子抜けするかもですが、まあそもそもがミュージアムですからね。今回ぼくもあらためてこの宇治特集号にあたって取材をしたことで宇治の魅力を再発見したり、宇治の郷土史なんかを個人的に研究してみたいなあと思ったのですが、小中学生の社会見学としてはいいんじゃないでしょうか。そういえばぼく自身、巨椋池干拓の歴史とか小学校で勉強したなあ。ああいうのって、案外いまでもちょっと覚えています。

表紙は宇治を象徴するものとして宇治橋やお茶の葉や抹茶と器のイメージフォト風などいろいろ考えたのですが、どうもしっくりこなかったんですね。ありていな割に、今回掲載するコンテンツ全体に通底するコンセプトにはなり得ないなあと。じゃあ、なんだろう?とあらためて考えた時に、すべてに共通する話としては宇治川なんだということに気づきました。朝日焼の器も、宇治橋橋守からお茶屋さんになった通圓さんも、木幡の松北園さんも、茶農家の辻喜さんも、藤原家にゆかりの深い県神社も許波多神社、テクノミュージシャンの岡崎体育さんまで。みんなが宇治川の水や土や空気を纏っている。

そこでまず「宇治。土と水と神話に育まれた場所で」というフレーズを書きました。それをネイティブ監修のリッチが「Uji & its tea nurtures by earth, water and myth」というふうに英語化してくれました。これをさらに日本語訳すると、「土と水と神話に育まれた宇治、そしてそのお茶」という感じになります。「its」がポイントです。これは「Uji & tea」だと、宇治とお茶となってしまい宇治茶というニュアンスは無くなります。宇治と一般名詞としてのお茶。つまり静岡でもでもいい、普通にお茶というニュアンス。では「Uji & Uji tea」あるいは「Uji & Uji cha」とするとUjiが二回出てくるのがくどいのと、外国人観光客には「Uji」がそもそも地名をさしていることがわからない人も多いので、タイトルをパッとみてもどんな情報が載っているのか意味がすぐにわからないんですね。
この両者のニュアンスを汲み取って考えられたのが「Uji & its tea」なのです。これで「宇治と宇治のお茶」ということがわかり、ようやく「Uji」がおそらくはその産地か生産者の固有名だろうということが少なくとも伝わるわけです。

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話が脱線しましたが、じゃあ宇治川でいいじゃないかと。塔の島と朝霧橋、朝日山を背景に宇治橋からとった写真は宇治の象徴的風景です。全てが入ってる。上の写真はいまENJOY KYOTOのFacebookに使っていますが、これはこれで映画冒頭のタイトルシーンみたいで好きなのですが、でもこれじゃあペーパーの表紙としては、ちょっとありていにすぎるのと「神話性」が足りないと思っていました。もともと宇治は奈良に近いためか平安京以前の物語が多く残っている土地です。古畑神社などは伝承ではありますが中臣鎌足が創建したと言われているんですよ。645年とかです。そういう神話性がほしいと。そこで思いついたのが源氏物語宇治十帖でした。この絵巻の場面を表紙に持ってこれないかと考えて、調べて行くと源氏物語ミュージアムが保管しデータ化したものを展示しているとわかり、連絡したところ快く承諾していただきました。

宇治川の水と宇治橋、緑と土、そして平安人の物語。これで全てのテーマが揃う一枚絵になりました。このようなプロセスを経て、今回の表紙が決まったわけです。自分で言うのもなんですが、ネイティブチェッカーとの英語フレーズ化のやりとりも含めて、こんなに手間をかけて作っているフリーペーパーはまずないと思うし、今回参加してkルエタライターの高橋マキさんもおっしゃってたんですけど、翻訳校正が楽しいんです。ライターの皆さん、ここは声を大にして言いたい!校正が楽しい仕事なんて、まずこの世の中にないですよ。

というわけで、今日はここまで。次回から、中身のコンテンツについて一つ一つ具体的に紹介していきます。お楽しみに。

ENJOY KYOTOの2017年お正月号にして記念すべきIssue20について

あけましておめでとうございます。昨年は1月14日にブログで「失敗しよう」と年初の目標を書きました。それはまあ字義通りというよりはむしろ、失敗するようなチャンレンジをしようということだったのですが、結果的にはそれほど大きな失敗はなく、それはつまり思っていたほどには大きなチャレンジに挑むことができなかたということでもありました。
それでも、昨年末のブログ(大晦日に2016年の仕事をまとめてみました。 - ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~)でも書いたように、大きな仕事ができたことについては自分にとってこの誓いが裏支えになっていたという実感はあります。大きな仕事や著名な方とのお仕事、多様な場で広く公開されるお仕事というのは、ともすれば致命的な悪評につながる場合もあるわけです。アーティストの方々と違い、ふだん無記名で仕事をしているコピーライターはあまりそうしたケースに慣れておらず、ゆえに「役不足ではないか?」と躊躇したり慎重になったりすることが往々にしてあるわけですが、その年初の誓いがあったおかげで、背中を押してくれたというのはあった気がします。引き続き今年も躊躇せずなんでもどんと来い!で、臆することなく取り組もうとは思っています。

さて、今年の目標はなにか?年初にテレビで市川海老蔵さんが「目標なんてないですよ。つねに通過点ですから」とおっしゃっていて、ああ、それは伝統芸能や伝統工芸なんかに携わっている方はみんなそうかもなあと思いました。ENJOY KYOTOで職人さんやお寺や神社の方々などとお話ししていると、やはりもっと大きな時間の中に自分の仕事を置いていて、1000年前と1000年後のあいだにある「いま」というわずかな時間を自分が担っている、という意識で仕事をされているように感じます。今回取り上げたお正月号に登場いただいた方々も、まさにみんなそのような大きな時間の中で仕事されている方ばかりでした。ざっとですが最新号の紙面をご紹介したいと思います。

表紙のおめでたい掛け軸とコンセプトフレーズ。

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ENJOY KYOTOは昨年11月で創刊から3周年を迎え、本年最初の正月号で20号目となりました。その記念すべき年初の号の表紙を飾るのは、巻頭特集でピックアップした表具師・井上雅博さん(京表具井上光雅堂)の最新作(完成直後に撮影した出来たてホヤホヤをお持ちして撮影しました)である「檜のお飾り」。花屋みたてさんの作品(みたて(花屋) - お正月飾り4 檜のお飾り(川合 優)... | Facebook)を掛け軸にしたこの作品は、お軸が立体パネルになっていて真ん中をくり抜き、そこに檜の木と枝、そして水引を施したみたてさんのお飾りを持ってきた斬新な掛け軸です。伝統あるものと新しいアイデアが融合したこの作品は正月らしさだけでなく、ENJOY KYOTOらしさという点でもぴったりの作品でした。そこでコンセプトフレーズとして掲げたのが“Reframe the traditional New Year style”です。「日本の伝統的なお正月をリフレームする」という意味なのですが、実はこのフレーズは僕が英語で書き、ネイティブ監修を担当しているリッチからOKをもらったものです。そして撮影はふだんよりお世話になっている正伝永源院さんのお茶室をお借りしています。撮影の時に偶然、お軸の中央近くに白い光が斜めに差し込んでいるのも、どこか神々しく、シンボリックな印象を与えています。

巻頭特集は表具師の井上雅博さんをピックアップ。

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キャッチフレーズは”Playing the supporting role to perfection”としています。英語にすると長いのですが日本語では「名脇役」という意味です。ぼく自身、井上さんとお話しするまで掛け軸や屏風というとやはり書や絵画など主役である作品のほうに目が行きがちだったのですが、今回取材したことで、たとえば奥さんの実家にある掛け軸をあらためて見て、これもどこかの表具師さんが仕事されたんだろうなあとか思ったりしました(もちろんかなり単純で質はまあ...という感じでしたが)。いずれにしても表具師さんというのはその作品を引き立てるのが仕事です。それでいて、そこにはその作品自身のコンセプトや描かれている絵画のモチーフ、描かれた書の意味などに合った材料や素材を選び、屏風や軸に仕立てるという作家性も求められます。そのあたりがなんというか良い監督の良い映画には必ずいる、演技派で渋い仕事をする名脇役をぼくに連想させるのです。

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考えてみれば海外でも額装とか額に彫刻を施すような仕事はありますが、表具師のような、完全に脇役に徹しながらそれでいてアートに通じる完成と高い技術を必要とする仕事というのは、ちょっと他になかなかないような気がします。そういう意味でもENJOY KYOTOらしいアプローチになったのではないかなと自負しています。井上さんはいま、表具師という唯一無二な技術を活かしてホテルやゲストハウスの室内装飾やインテリアの装飾、空間プロデュースのような仕事もされています。今回の取材でもそうした作品もご紹介しています。

初詣と、お守りについて。

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今年のお正月に奥さんの実家に子供らとともに帰省した際、いわゆる地域の氏神さんと呼ばれる小さな神社にお参りしたのですが、そもそもの初詣というのはこうした地域の氏神様に村の代表者が大晦日の夜からこもってそのまま年越しをして村の一年の安寧を願うものだったそうです。そうした初詣の起源を示しながら、今では宗教行事というよりも一年の誓いを立てたり運勢を占ったりする楽しいイベントになっていると書きました。そこには異教の人々含め外国人の観光客にも気軽に体験してもらいたいと考えてのことです。

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そしてお守りはデザインがかわいいものを集め、そのご利益とあわせて紹介しています。とくに外国人観光客向けということで上賀茂神社の「航空安全」のお守りはぴったりだなと思いました。今回、自分自身でそれぞれの神社に足を運び実際にお守りを購入して掲載することにしました(北野天満宮さんのみデータ支給が規則だということでしたので購入していません)。撮影したいというのもありましたが、やはりお守りというのは神様からの授けものですから、撮影用にお借りするとか無料でご提供いただくとかいうのは、ちょっと違うなあと思ったからです。なんというか、こういうの信仰者ではないのに、ちょっと罰当たりかもと感じたりするあたりも、もしかしたらちょっと独特な感覚なのかもしれませんね。

「縁起物」という日本的な慣習。

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お正月の縁起のいい食べ物を、ということで老松さん(京都の和菓子 老松)の花びら餅と、丸久小山園さん(京都・西洞院店 | 茶房「元庵」 | 宇治 丸久小山園)の大福茶を取り上げました。海外ではたとえば「縁起のいい食べ物」という発想そのものが基本的にないということです。考えてみればそうですよね。おせちなんかもそうですが、食べることや食材に意味を込めて、その意味に照らして食事をいただくというのは、日本人独特の思想なのかもしれません。「牛は神様の使いだから食べない」とか「まじないとして何かの薬草を食べる」みたいなのはありますけどね。ぼくもお正月に自分の実家に行くときに老松さんの花びら餅と丸久小山園さんの大福茶を買って行って家族でいただきました。

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あと老松さんに伺った時に花びら餅を作っているところを見せていただいたので、その様子を見ながら「ああ、これイラストで再現してもいいかも」と思いたち、実際に掲載してみました。大福茶の入れ方もそうですが、きっと完成形だけをみても、外国人のかたにはこれがどういうもので、どうなってできてるのか、わからないだろうと思ったからです。イラストはマムマムのぶりんさん(https://www.facebook.com/mammamnon/?pnref=lhc)に描いてもらいました。いつも可愛いイラストで紙面に華を添えてくれています。

子どもとお正月の遊びについて。

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この京こまは木ではなく布でできています。木の芯に布を何重にも巻きつけていくんです。神泉苑の向かいにある雀休さん(雀休 | 京の逸品 老舗モール)の中村さんはいまや京こまを作ることができる最後の職人さんなのです。で、実際にうちの息子たちにコマ回しをやらせてみたのですが、最初はこれがからきしダメで全く回らないんです(笑)。ところがそんな現代っ子でもですよ、回らないとなると回そうと頑張っていくんです。そしてだんだんとコツを掴んで、みるみる上手に回せるようになったんですね。なんというかこういう手先指先の感覚を使ってその力加減を感覚で調節しながら遊びを習得していく、というのは自分の記憶を振り返っても、やはりすごく大事なことなんじゃないかなと思いました。今だとなんでもボタンです。音楽を聴くのも、お茶を入れるのも、遊ぶのも、何から何まで、ボタンを押すくらいしか動作がないんですよね。これだとダメだなあとね、なんとなく感じました。

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凧と羽子板については、船はし屋さん(なつかしい京の駄菓子屋船はし屋)を取材。寺町四条を下がったところにある京都の人ならなんとなく知ってるはずの駄菓子屋さん。ここのご主人がとても面白い方で、絵を描いたり文章を描いたり多彩な方でした。店の中は懐かしいお菓子ばかりで、取材を終えた後は単純にお客としてお菓子をいっぱい買い込んでしまいました。

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というわけで、2017年最初の号はお正月の楽しさを新しく見直してみました。季節のお菓子をいただいたり、子供のことで神社にお参りしたり、床の間に時期時期のお軸をかけたり、花を飾ってみたり。そうした、当たり前のことを当たり前に、毎年毎年繰り返すことの豊かさについて、歳を重ねてみた初めてわかるようになってきたところがあります。そんなことを考えながら一年を始めたいと思います。で、今年は「実行」の年、とします。いままで考えてきたことを実行に移し、来年以降に華を咲かせるための準備になると考えています。いままで以上にいろんな人にお会いする一年になるだろうと思います。会いたいよー、と思ったらできるだけすぐに会いに行くようにします。話したいよー、と思ったらなるべく早くお話しに伺います。よかったら、笑顔で迎えてやってください。そしてよかったら、みなさんからも「会いたいよー」って言ってくれると喜びます。ちぎれるくらいに尻尾を振って会いにいくので、ぜひぜひよろしくお願いします!