ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

ENJOY KYOTO Issue22 宇治特集号をセルフレビューします 〜その4〜 「松北園 木幡という小さな街で世界に挑むお茶屋さん」

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京阪の木幡駅とJRの木幡駅のちょうど中間あたり、なだらかな坂の途中にある保育園のとなり、旧奈良街道沿いに松北園茶店はあります。実家に住んでいた頃はしょっちゅう前を通っていたし、たしかにお茶の香りがたまにしていたなあと、そのくらいの印象でした。しかし、今回取材をしようといろいろ調べていくうちに、ものすごく由緒正しいお茶の生産者さんだったということを知り、失礼ながら初めてその偉大さを知ることとなるわけです。

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京阪木幡駅。ここから歩いて2,3分のところに松北園はあります。


そもそも木幡というのは宇治市の中では位置的にはもっとも京都市に近い北寄りのエリア。ぼくが小学校から高校までを過ごした、いわば青春の街でもあります。大人になってたまたま源氏物語を読んだ時に「木幡の山越え」の話が出てきて驚いたものだけど、その後じつは古事記を読んでみたらそこにもその名が登場するなど非常に古い土地であることを知り、さらに驚いたことを覚えています。住んでいた時は遊ぶところがまったくないただの新興住宅地という印象しかなかったけれど。

じつはBRUTASはじめ多くの雑誌などで活躍中の写真家である福森クニヒロも同じ木幡のすぐ隣のマンションに住んでいて小中高と同じ学校でしたし(高校ではラグビー部も一緒だった)、前にも書いたのだけど安田美沙子さんや坂下千里子さんも木幡でしたね。それから、いまはパリのお店にいらっしゃる枝魯枝魯の枝國さんも宇治の出身で、いちどお話をした時の印象だとけっこうどこかですれ違っていたんだろうなあと思いました。たぶん六地蔵にあったゲームセンターの桜木とかかな。あと枝國さんは有名になられる前にぼくの実家の近所にあっためちゃめちゃ亭で働いていたこともあったそうで、もしかしたらその時期にも知らずに会っていたかもしれない。そのめちゃめちゃ亭もちょうどこの4月についにお店を閉められたそうです。店長どうされてるかなあ。

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いまはなき、めちゃめちゃ亭。ここでよく飲んだなあ。


さて、前置きが長くなったけど松北園です。由緒正しいと書いたのですが、どう正しいかということを説明しましょう。北野天満宮で毎年秋に行われる神前に茶を奉献する「口切式」というのがあります。これはもともと16世紀後半に時の権力者であった豊臣秀吉が催した北の大茶会を機に開かれる「献茶祭」で使用する抹茶の原料である「てん茶」を奉献する由緒あるもので、その年の初夏に採れた茶葉を入れておいた茶壺の口をこの時に初めて切ることから、そう呼ばれているのだそうですが、その茶壺は数ある宇治茶の産地からそれぞれに用意されるんですね。で、その礼祭で真っ先に口を切られる「一の壺」にはかねてより木幡の茶が収められることは決まっており、その木幡の茶を担っているのが、他でもないここ松北園のお茶だということです。いやあ、そんなすごいお茶が木幡のしかもあのいつもよく通るあの場所で作られたなんて。これは個人的にかなりの驚きの事実でした。

松北園の歴史は古く、創業は1645年。いまからおよそ370年前のことです。以来、ずっとほぼ同じ場所にあるんだそうです。これもけっこうすごいことです。で、松北園が宇治茶の中で異彩を放っているのは、生産農家から小売販売までを一手に担っていること。じつは宇治茶は分業制が基本であり、生産農家、茶師、卸問屋がいて、最後に小売店と完全にシステム化されています。最近は生産と卸を兼ねるところや、製茶と小売を同時に担う企業も出てきてはいるそうなのですが、それでもこれほどまでの規模で、しかも古くから続けてきたところというのは松北園以外にはあまり見当たらないということでした。

取材の時に撮影用にテイスティングをされているシーンを撮影したのですが、テイスティング碾茶(てんちゃ)をお湯だししたもので味を見ます。碾茶というのは摘採まで少なくとも20日以上被覆してその生葉を蒸して揉まずに乾燥させたもの。この碾茶を石臼で挽いたものがいわゆる抹茶になるんだそうです。で、これを高温のお湯で出して味を見るのだそうです。通常、美味しいお茶は低音でと言うイメージがありますが、なぜ高温なのかというと過酷な状況で出した方がそのお茶の弱点がわかるからだそうです。
その碾茶を低音でじっくり出したものを飲ませていただいたのですが、これがものすごく美味しかったんです。お出汁のような味。「旨味の化け物」とおっしゃってましたけど、本当に旨味そのものが口の中で広がる感じ。「これでお茶漬け食うたらめっちゃ美味いですよ」とのこと。たしかに。丸っこくてとろみがあって、むかし某代理店の偉いさん位連れられて大阪のホテルソムリエが集まるワイン会で飲んだ超高級ワインの口当たりにも似ていました。

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テイスティングする社長の杉本さん。茶師というよりソムリエといった感じ。


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これがものすごい美味しかった「旨味のお化け」と評される碾茶


インタビューでお話しさせていただいた杉本剛さんは1968年生まれの48歳でいわば同世代。「人間が得意な部分は人間が、機械のほうが得意なことは機械がやればいい」という言葉に代表されるように老舗茶園の茶師というよりはきわめて合理的な企業家という印象の人で、老舗の茶店を現代的なビジネスの視点を持って眺め、職人の手技と最新テクノロジーの融合を見事に図っていらっしゃいました。
あと個人的におお!とテンションが上がった話がありました。いまから20年くらい前のこと。松北園さんが卸していたニューヨーク・ブルックリンにあるアジア食料品店に、ある日大きなリムジンが横付けされたかと思うと、店にあるだけの松北園のお茶をすべて残らず買って行った客人がいたそうです。その客人の名は、スティーブン・スピルバーグ。杉本さん曰く、いまのように世間的なブームになる前、すでにその頃からいわゆるセレブレィティが日本茶に興味を示し始めていたのだそうです。

今後について話を聞くと、杉本さんは「ティーバッグ」に力を入れていきたいと話していました。現代人の生活スタイルに合わせて、いま松北園では年間に10種類のティーバッグ商品があり、夏に水出しタイプが出てくると合計17種類もあるそうです。海外展開もしていて、今年から始まった「グローバルティーチャンピオンシップ」という世界のお茶の品評会で、松北園の玉露ティーバッグが「蒸し製緑茶」の部門で1位に選ばれています。もちろん急須で入れるのと同じクオリティのものをティーバッグに求めることは難しいのですが、その中で最高のものを作りたいと努力されています。その積み重ねの末に、最終的には日本で「お茶の間」とかつて呼ばれた家族団欒のリビングに自然とお茶が戻ってくる。そして、そのプロセスがあってこそ、次のステップであるリーフを急須で楽しむ人を増やすことにつなげていきたいと話してくださいました。
ぼくも実際にお店で買って飲んでみましたが香りがすごいです。ティーバッグとは思えない、しっかりと深みのある香りがします。

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箱もおしゃれ。

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個別包装になっている袋もかわいい。

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ティーバッグはこんな感じ。

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玉露の香りがすごいです。ティーバッグとは思えない深い香り。



ぼく自身、実家にいた頃に比べると急須でお茶を淹れて飲むことは少なくなりましたが、いまやそもそも急須を持っていない家庭も多いと聞きます。宇治という街もそうだけど、その中でも木幡という本当に自分の実家があるご近所でこんなふうに海外を相手にチャレンジしているお茶のスペシャリストがいることに、すごく感銘を受けた取材でした。

木幡については今回、他にもこの松北園さんのすぐ裏にある許波多神社も紹介していますが、なかなかにいい街ですよ。これといって取り柄はないけど、なんとなく憎めないやつ。そんな感じの街です。
実家近くでよく見知った場所で、平日昼間に取材していると、ふと高校に行く振りをして学校をサボってふらふらと歩いてたことや、喫茶店で友達と漠然とした将来の不安など、どうということのない話をしていたことがフッと蘇り、その同じ場所で自分がこうして仕事をしているのがとても不思議な感覚でした。時折ふとすれ違う木幡中学や東宇治高校の学生たちを見ては「彼らの人生はこっから始まるんだなあ」と、いちいちかつての自分の姿を重ねていました。