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ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

20年前の、きょうのできごと

ぼくは黙祷というものあまりが好きではありません。祈りはひとりでひっそり捧げられるべきものだと思うからです。それからこういうことなんかで美辞麗句を並べてなにかを言ったような気になるみたいなのもすごく嫌悪感があります。そんなことを言うくらいなら黙っている方がいいとぼくは思っています。
それでも、自分が初めて体感した大きな地震であり(東日本大震災は関西では揺れそのものは小さかったですから)、その阪神大震災からちょうど20年の区切りを迎えて、自分もなにか書いてみようと思いました。

書くにあたって考えたこと。それは、まずあの日の朝に家族や自宅を失った人たちは、なにがあっても1995.1.17のことを忘れることはないだろうということ。そして、ではそうではない自分のような人間がこの体験を忘れないためにどうしたらいいだろうと考えました。東日本震災の時も思ったけど、寄付とかボランティアとかいろいろあるけど、それさえもなかなかできないという人のほうが多いだろうし、でもだからってその人たちが悪い人であったりするわけではないし、そういう自分を蔑む必要もない。では、自分も含めそういう名もなき無力な人間ができること。それは、そのとき自分がいったいなにをしていたかを記録して共有することではないかなあと思いました。むしろそれだけでじゅうぶんというか、それこそが大事なのではないかと思ってこれを書きました。1995年1月17日の早朝の記録です。



20年前の早朝5時46分。そのとき、ぼくは前夜から徹夜で本を読んでいた。突如揺れが来て目の前の本棚が倒れそうになり足元が立ってられないくらい動いていた。当時、関西では地震はほとんどなかったので、ぼくはそれまで大きな地震というのはビルの上部がグラングランと振り子のように揺れるイメージを持っていたのだが、その地震では地面そのものが左右に大きく動いている感覚だった。本棚を抑えるのに精一杯で体感では揺れは10~20秒くらい続いたように感じた。おさまったときに「これはえらいことになった」と直感した。
揺れがおさまってリビングにいくと父親の弁当を用意していた母親が食器棚を抑えていた。父と兄弟たちが集まってきてとりあえずテレビをつけた。震源はわかっていたが停電で現場の状況がわからないという状態がけっこう長く続いた印象がある。宇治の実家にいたぼくはあの京阪が止まっているのでこれはヤバいと感じた。
明るくなってきてまず大阪の様子がわかってくる。神戸はまだ。ヘリが飛んでようやく神戸の街が空から映し出されて事態が把握できる。見たことのない状況に言葉がなかった。火災のない地域は一見大丈夫そうに見えるがカメラが寄った時「え!この一帯の建物ぜんぶ潰れてるの?」と驚いたのを覚えている。
そこからは皆さんご存知の大型ビルの横倒しや長田の大規模火災、阪神高速の倒壊など信じがたい映像の連続だった。当時なんとなく「とにかくこれは見ておかなくてはけない」と思いながらずっと見ていた記憶がある。京都は神戸から距離もあったので揺れは激しかったが知る限り被害はほぼなかった。
あの朝ぼくは23歳で、通っていた映画学校も中途半端で辞め、映画をやりたいと言いながら実態はフリーターで女の子とも別れたばかりで未来がまったく見えないどん底の時期だった。でも震災でたくさんの人が亡くなって生き延びた人も困窮している中で、いまの自分の生き方というものを省みたときに、なにかとても悪いことをしているような気持ちになったことを強く覚えている。
何人かの友人が神戸で被災はしたが、それでもみな生きていた。自分も生きねばと思った。「生きてるんならちゃんと生きろ」。それがぼくにとっての阪神・淡路大震災だった。

この話には、少し長い後日談がある。ぼくが小学校・中学校のときに仲良しだったある友人がいる。彼は小さいころからアトピー性皮膚炎でぜんそくを併発していた。家の方角も同じだったのでよく一緒に下校していた。ときどき彼は発作を起こし、そのたび吸入器を使用した。ぼくはそのあいだじゅうずっと彼の背中をさすった。皮膚炎のざらっとした彼の背中の感触をぼくはいまでもよく覚えている。
高校進学のときに別の高校に行くこととなり、それを機に彼とは疎遠になってしまった。噂では何浪かして神戸の大学に行ったと聞いていた。
阪神・淡路大震災から数年経った頃、とある知人から連絡があり、その彼が亡くなっていたことを聞いた。おさまっていたはずのぜんそくの発作が起こり、神戸で一人下宿していた彼はそのまま吐しゃ物を喉に詰まらせて亡くなったということだった。
彼が神戸の下宿で亡くなったのは、1994年の12月のこと。もしそのときそばに誰かがいて彼の命を救っていたとしても、結局はその1か月後の震災で死んでいたのかもしれない。彼が住んでいた地域は被害の大きな地域だったからだ。彼は病気がちで高校を多く休み、卒業後勉強して苦労してようやく大学に入った。その大学のある神戸で彼は死んだ。小さいころから患っていた病気での死ではあったが、そこを乗り越えたとしても、いずれ震災が彼を圧し潰したことだろう。人生とはかくも皮肉なものかと思った。病に屈して人生を諦め、神戸の大学になど行かず宇治の自宅で(その当時のぼくのように)親のすねかじりをしていれば、逆に彼はいまも生きていたかもしれないのだから。
彼のお母様から聞いた話では、中学校の修学旅行のとき彼は病気のこともあり行くのを嫌がった。ところが僕が「もし発作が起きたらまた俺がさすってやるからぜったいに来い」と強く誘ったのだという。そのエピソードはぼく自身はまったく覚えていなかったのだが、彼はそれをとてもうれしそうに話していたのだそうだ。
震災から20年というのは、ぼくにとっては彼が死んで20年ということでもあるのだった。