ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

京都ヒストリカ国際映画祭でコロンビア映画「大河の抱擁」観てきました。

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京都ヒストリカ国際映画祭に行ってきました。昨年はプログラムディレクターの髙橋剣さんにロングインタビューを敢行(第1回「京都ヒストリカ国際映画祭誕生前夜」 | ENJOY KYOTO)したのですが、じつは最新のENJOY KYOTO でも京都ヒストリカ国際映画祭のことを紹介させていただいているのですが、映画祭の担当者さんでいつもお世話になっている衣川くるみさんから「じつは今回は例年になくけっこう外国人観光客の方が飛び込みで来場されてて、きっとこれはENJOY KYOTO効果です!」と言っていただきました。ほんとうに嬉しい限りです。

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さて、上映された映画は「大河の抱擁」というコロンビアの作品。日本ではこの映画祭でなければまずお目にかかれないだろうと思うのですが、じつはカンヌ国際映画祭でも「監督週間グランプリ」を受賞している実績のある力作です。先住民の村に白人の学者が研究でやって来て、という話はさして目新しいものではありませんが、この映画では主人公が先住民であり、つねに先住民サイドの目線で語られていくところがおもしろかったです(コロンビア映画だからあたりまえといえばあたりまえですが)。モノクロームの映像がとても美しく、ジャングルの原色や先住民の身体に施された彩色が、むしろモノクロであることによって際立っているように感じました。またこの映画はある幻覚作用を持つ植物をめぐって探検をする白人の学者と主人公である先住民の男の探検が中心なのですが、植物のもつ麻薬性や呪術的な場面の数々、それとアマゾンのゆらめく大河の流れとが相まって、見ている側もなにか幻覚を見ているかのような感覚に引き込まれていくような気がする魅惑的な映像でした。

ぼくが個人的に気になったのは、じつは本筋とはあまり関係のない(ように見える)、見逃してしまいそうなほんの小さな描写です。それは映画の後半のひとつのクライマックスで、探し求めていた植物が植生しているとある村に主人公と白人の学者がたどり着いた場面です。主人公の先住民はその村人たちが神聖な植物を「育てて」いることが禁忌であるといってその貴重な花を燃やしてしまいます。その刹那、どこからともなく銃声が鳴り響き、主人公らと共に村人が逃げ惑うのですが村人たちは口々に「コロンビア人が襲ってきた!」と叫んでいたのでした。われわれ日本人の多くは、南米の先住民に対する略奪・殺戮といえば、すぐにスペイン人やポルトガル人と考えがちですが、この映画はコロンブスの時代ではなく100年前の内戦時代が舞台。そして先住民に襲いかかっていたのがコロンビア人だった。しかもその襲撃シーンではコロンビア兵をいっさい映さず銃声だけで表現されていた。このことに、コロンビア人である監督のなんらかの意図のようなものを感じ取り、とても深く僕の印象に残りました。そのあたりもしかすると制作サイドのある種の配慮だったのかもしれませんが、はたしてこの場面が母国コロンビアでどんな評価だったのだろうと個人的には気になりました。

じつは上映後すぐ別館に移動して今回のヒストリカの目玉企画のひとつである、青木美沙子さんというロリータファッションのカリスマを迎えた「ゴスロリwithマリーアントワネット上映会」的な催しの様子を覗きに行くつもりだったのですが、「大河の抱擁」の直後に行われたラテンビート映画祭のプロデューサーであるアルベルト・カレロ・ルゴさんのトークがあんまりおもしろかったので聞き入ってしまいました。ラテンアメリカでいま映画製作がすごく盛んであること、各地の映画祭でラテンアメリカの映画が受賞したり、ハリウッドで活躍するラテンアメリカの俳優が増えている話などがとても興味深かったです。こういう上映後のトークショーで現場の方から貴重な話が聞けるのもこの京都ヒストリカ国際映画祭のおもしろさのひとつですね。「世界中の歴史劇を集めた映画祭なんて、この映画祭くらいだよ!」と、とある香港の映画プロデューサーにも太鼓判を押されたという京都ヒストリカ国際映画祭。今年は明日がラストですが、また来年も楽しみな映画祭だと思いますし、引き続きサポートしていきたいと思います。

www.historica-kyoto.com

衣替えと「街」の記憶


tofubeats(トーフビーツ)- 衣替え feat. BONNIE PINK - YouTube


きのうはちょうど衣替え。そして今日は、なんと「豆腐の日」でもあるのだそう。それでふとこの曲のことを思いだして、それでちょっと意味のない雑文を書いてみようと思い立ったのだった。ほとんど個人的なメモのようなもので、これまで更新頻度の少ないこのブログの中でも異質というか趣の異なる文章になっていると思うので、関心のない人にはなんの示唆も教訓もないものだということをあらかじめ断じていおきたい。

さて、ここからが本文。もうずいぶんむかしの話にはなるのだけれど、かつて学生服を着ていた頃は「衣替え」って、なんだかちょっとワクワクしたものだった。いままで半袖だったシャツが長袖に替わり、上からブレザーを着る。おろしたての冬服独特の匂いがして、服を着込んだ途端、より一層風が冷たく感じるようになる。もちろん、みんな冬服に着替えているので、登校時の朝の風景がほんの少し違って見えた。教室の空気もどこか新学期みたいなよそよそしい、気恥ずかしいような心持ちがした。この曲はそんな気持ちを思い起させてくれる。

そしてもっと個人的に言えば、ぼくはこの曲を聴くと、とある郊外の街を思い出す。時は1990年代半ばで、ぼくは20代の半ば。駅にはロータリーがあってそこを抜けると居酒屋や不動産屋や学習塾があって賑やかだ。ロータリーを抜けると大規模スーパーやOPAがあり、さらにそこからもう少し行くと大きな国道に出る。そのあたりまで来るとあたりにはマンションや住宅地がひろがり、国道沿いには自動車のリース会社や個人でやっている酒屋さんや理容店がならぶ。国道からさらに一本路地を入ると小規模農家の営む小さな田んぼや畑なんかがあって、駅前の喧騒が嘘のように静かで見上げると大きな月が見えたりもする。

当時ぼくはこの「街」にとある用事があって何度か通うことになった。そうして季節を問わず、昼夜を問わず、「街」のそこここを歩いた。でもぼくがこの曲を聴いて思い出すのは、きまって秋の夜なのである。春の朝でも、夏の夕暮れでもなく、それはぜったいに秋の夜なのだ。駅から目的地へと向かう道中、そのOPAのあたりを歩いている秋深い夜の風景。それも6時だか7時だか、それほど深い時間ではない。涼しくなり始めた風が心地よく、遠くの方で喧騒が微かに聴こえる静かで深い夜の中を、僕は一人で歩いている。そのときも、おろしたての長袖のシャツを着ていた。そのときの、すこし背筋がピンと伸びたような気持ち、何度か来てはいるがまだ勝手はよくはわかっていない「街」を、真新しい服を着てただ一人で歩いているときの、なにか新しいことが始まりそうな予感めいたふわふわした開放感が、この曲を聴いているうちに、まるでじかに触れられるかのようにありありと思い浮かぶのである。

この曲が発表されたのは2014年だから、実際にぼくが「街」を歩いていたのはそれよりずっと前である。つまり当然のこととして当時聞いていた思い出の曲というわけでもないし、時代背景もなにも、この曲と「街」の記憶には何の因果関係も見いだせない。それでもぼくはこの曲を聴くたびにその「街」の風景を、秋の夜の一人歩きのことを、それこそ風の匂いや、車の過ぎ去っていく音やクラクション、遠くで聞こえる若者たちの甲高い声や、闇に光る自動販売機の明かりやマンションの明かり、抱えた荷物が食い込む肩の痛みまで思い出すことになる。
新しい街、新しい服、新しい風。中身は何も変わっていないのに、自分がなにか違う別の人物へと生まれ変わっていくような痛快で心地よい感動が、暗闇を突如照らし出すまぶしい光のように、あざやかにぼくの心に浮かび上がるのだった。「衣替え」には、そんな魔法のような特殊効果があるように思う。流行のファッションとやらにはあまり関心はないのだけれど、今年はなにやら新しい冬服が、なんだかちょっと欲しくなってしまった。

ENJOY KYOTO Issue12 is out

ENJOY KYOTO Issue12が配布されています。今号は冨田工藝さんに取材させていただきました。仏像やお位牌を作られる仏師、位牌師というお仕事はあまりふだんお近づきになることはありませんが、いろいろ興味深いお話を伺えました。

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いろんな話の中で、とりわけ感銘を受けたのは「愛着」ということについてでした。東日本大震災のあと冨田さんは被災地である気仙沼石巻、京都や東京、ニューヨークなどいろんな街の人にお地蔵さんを彫ってもらい、それを東松島のお寺にお納めするというプロジェクトをボランティアで立ち上げます。そこで皆さんはじめて彫刻刀を持ったような方もいるのですが、顔を彫り進めるうちに、みんなに同じ彫りかたを教えているのにみんなお顔が違ってくる。睦海さんは「その違っているお顔は、あなた方が普段よく見ているお顔なんです」と言います。夫か妻か、親か子どもか、友人か恋人か、あるいは自分自身か。いずれにせよ、たぶんもっとも大事に思い、もっともよく見つめている顔が、そのお地蔵さんに投影されるのだというんです。そこに「愛着」があるのだと。

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そして。そのわざわざ愛着のわいたお地蔵さんを手放してもらい、お寺に納めていただく。そこに意味があるのだそうです。愛着のないお地蔵さんはただの木の塊です。木の塊を納めてもそこにはなんの意味もありません。よく言う「気持ちを込める」というのは、この愛着のことで、おそらく運慶や快慶はじめすべての仏師さんも、この「愛着」のこもった仏様をお寺に納めているのだろうと推測されます。そして、すべての宗教心の出発点こそがこの「愛着」なんだと睦海さんは話してくれました。

ちょうどこの夏に叔父が亡くなったこともあって、死について、あるいは祈るということについてあらためて考えました。霊やあの世を信じないぼくであっても、ご遺体に、お骨に、遺影に、仏壇に。自然に手を合わせこうべを垂れていました。その理由が「愛着」という睦海さんの言葉で、ぜんぶ理解できたような気がしています。

フィンランドからの留学生が描く「日本人論」

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フィンランドから京都精華大学に留学で来ていたKiiaが一週間後に帰国するということで、彼女の日本での生活とそれを通じて彼女が日本を理解しようとしたプロセスを映像や写真、絵画など含むインスタレーションで表現した個展「日本人論」に行ってきました。
ここに乗せた写真はフリースタイルな茶道や書の作品が多いのですが、全体としてはトラディショナルな日本をイメージしたものはむしろ少なく、モダンでポップな雰囲気のもの、といってもいわゆるKawaiiとかガーリーな感じというよりはモノトーンのものが多く、若さや日常性、さらには日本に対する批評性も感じられ、それこそ精華大学の日本人学生が作ったと言われてもなんら疑問に思わないような内容になっていたのがとくに強く印象に残りました。
じつはKiiaとは半年くらい前にENJOY KYOTOの事務所でいちどお会いしていました。そのころに比べて日本語がすごく上手になっていて驚いたのですが、昨日はKiiaを事務所に連れてきてくれた平居紗季さんも交えていろいろお話しできて、とても楽しかったです。


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どうしても外国から本やニュースで見る日本はトラディショナルなイメージが先行しがちだと思うので、こういう若い作家さんが日本で活動してまた本国に帰ることで、いまのリアルな日本やモダンな京都のカルチャーや空気を伝えて行ってくれると、またひとつ理解や関心が深まっていっておもしろいことが生まれるんじゃないかなと感じました。



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かなりフリースタイルなお茶席。卵は誕生と変身のシンボルなんだとか。


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気高き方の徳が長く伝わること。京都の山と川のイメージなのかも。ここにも卵。


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地べたに敷くお布団は日本の生活様式ですよね。下宿生活そのままここに持ち込む意図があるんでしょう。



ぼくは以前より「グローバルというのは全世界が共通の価値観でひとつになることではなく、互いのローカルを認め合いながら、ローカルがローカルのままで別のローカルとつながることだ」と言ってきました。そして、だからこそことさら異国の人との違いを強調するのではなく、表面的な差異のその向こうにある共通点をさがしながら、互いの文化をリスペクトしあえる関係を作っていきたいと考えてきました。Kiiaの個展からは、またひとつそのヒントをもらったようにも思いました。やっぱり異文化と交流し、価値を共有していくうえでのポイントは「日常性」の中にこそ多くあるのだなということ。そしてそれは、ENJOY KYOTOを作るうえで流れている自分の方向性にも通じる点でもあるとぼくは思っています。

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ぼくが紗季さんを、紗季さんがKiiaを、Kiiaがぼくをパチリ!

20年前の、きょうのできごと

ぼくは黙祷というものあまりが好きではありません。祈りはひとりでひっそり捧げられるべきものだと思うからです。それからこういうことなんかで美辞麗句を並べてなにかを言ったような気になるみたいなのもすごく嫌悪感があります。そんなことを言うくらいなら黙っている方がいいとぼくは思っています。
それでも、自分が初めて体感した大きな地震であり(東日本大震災は関西では揺れそのものは小さかったですから)、その阪神大震災からちょうど20年の区切りを迎えて、自分もなにか書いてみようと思いました。

書くにあたって考えたこと。それは、まずあの日の朝に家族や自宅を失った人たちは、なにがあっても1995.1.17のことを忘れることはないだろうということ。そして、ではそうではない自分のような人間がこの体験を忘れないためにどうしたらいいだろうと考えました。東日本震災の時も思ったけど、寄付とかボランティアとかいろいろあるけど、それさえもなかなかできないという人のほうが多いだろうし、でもだからってその人たちが悪い人であったりするわけではないし、そういう自分を蔑む必要もない。では、自分も含めそういう名もなき無力な人間ができること。それは、そのとき自分がいったいなにをしていたかを記録して共有することではないかなあと思いました。むしろそれだけでじゅうぶんというか、それこそが大事なのではないかと思ってこれを書きました。1995年1月17日の早朝の記録です。



20年前の早朝5時46分。そのとき、ぼくは前夜から徹夜で本を読んでいた。突如揺れが来て目の前の本棚が倒れそうになり足元が立ってられないくらい動いていた。当時、関西では地震はほとんどなかったので、ぼくはそれまで大きな地震というのはビルの上部がグラングランと振り子のように揺れるイメージを持っていたのだが、その地震では地面そのものが左右に大きく動いている感覚だった。本棚を抑えるのに精一杯で体感では揺れは10~20秒くらい続いたように感じた。おさまったときに「これはえらいことになった」と直感した。
揺れがおさまってリビングにいくと父親の弁当を用意していた母親が食器棚を抑えていた。父と兄弟たちが集まってきてとりあえずテレビをつけた。震源はわかっていたが停電で現場の状況がわからないという状態がけっこう長く続いた印象がある。宇治の実家にいたぼくはあの京阪が止まっているのでこれはヤバいと感じた。
明るくなってきてまず大阪の様子がわかってくる。神戸はまだ。ヘリが飛んでようやく神戸の街が空から映し出されて事態が把握できる。見たことのない状況に言葉がなかった。火災のない地域は一見大丈夫そうに見えるがカメラが寄った時「え!この一帯の建物ぜんぶ潰れてるの?」と驚いたのを覚えている。
そこからは皆さんご存知の大型ビルの横倒しや長田の大規模火災、阪神高速の倒壊など信じがたい映像の連続だった。当時なんとなく「とにかくこれは見ておかなくてはけない」と思いながらずっと見ていた記憶がある。京都は神戸から距離もあったので揺れは激しかったが知る限り被害はほぼなかった。
あの朝ぼくは23歳で、通っていた映画学校も中途半端で辞め、映画をやりたいと言いながら実態はフリーターで女の子とも別れたばかりで未来がまったく見えないどん底の時期だった。でも震災でたくさんの人が亡くなって生き延びた人も困窮している中で、いまの自分の生き方というものを省みたときに、なにかとても悪いことをしているような気持ちになったことを強く覚えている。
何人かの友人が神戸で被災はしたが、それでもみな生きていた。自分も生きねばと思った。「生きてるんならちゃんと生きろ」。それがぼくにとっての阪神・淡路大震災だった。

この話には、少し長い後日談がある。ぼくが小学校・中学校のときに仲良しだったある友人がいる。彼は小さいころからアトピー性皮膚炎でぜんそくを併発していた。家の方角も同じだったのでよく一緒に下校していた。ときどき彼は発作を起こし、そのたび吸入器を使用した。ぼくはそのあいだじゅうずっと彼の背中をさすった。皮膚炎のざらっとした彼の背中の感触をぼくはいまでもよく覚えている。
高校進学のときに別の高校に行くこととなり、それを機に彼とは疎遠になってしまった。噂では何浪かして神戸の大学に行ったと聞いていた。
阪神・淡路大震災から数年経った頃、とある知人から連絡があり、その彼が亡くなっていたことを聞いた。おさまっていたはずのぜんそくの発作が起こり、神戸で一人下宿していた彼はそのまま吐しゃ物を喉に詰まらせて亡くなったということだった。
彼が神戸の下宿で亡くなったのは、1994年の12月のこと。もしそのときそばに誰かがいて彼の命を救っていたとしても、結局はその1か月後の震災で死んでいたのかもしれない。彼が住んでいた地域は被害の大きな地域だったからだ。彼は病気がちで高校を多く休み、卒業後勉強して苦労してようやく大学に入った。その大学のある神戸で彼は死んだ。小さいころから患っていた病気での死ではあったが、そこを乗り越えたとしても、いずれ震災が彼を圧し潰したことだろう。人生とはかくも皮肉なものかと思った。病に屈して人生を諦め、神戸の大学になど行かず宇治の自宅で(その当時のぼくのように)親のすねかじりをしていれば、逆に彼はいまも生きていたかもしれないのだから。
彼のお母様から聞いた話では、中学校の修学旅行のとき彼は病気のこともあり行くのを嫌がった。ところが僕が「もし発作が起きたらまた俺がさすってやるからぜったいに来い」と強く誘ったのだという。そのエピソードはぼく自身はまったく覚えていなかったのだが、彼はそれをとてもうれしそうに話していたのだそうだ。
震災から20年というのは、ぼくにとっては彼が死んで20年ということでもあるのだった。

2014年の最後に

9月以降はほんとうに忙しくてもともと更新頻度の少ないこのブログは、さらに過疎化していたのですが、今日は大晦日ということで軽く一年を振り返っておこうと思います。

今年はずっと20年くらい好きで聴き続けてきたくるりつじあやのさん、高校時代からテレビで見ていたジェフ・バーグランドさん、年末にはパトリス・ルコントにまでインタビューができました。それから川尾朋子さんや小嶋商店のお二人、大森準平さんに青山洋子さん、京都の名だたる作家さんや職人さんとも、メディアにありがちな「単に取材しましたよ」ではなく、継続的にお会いしたりお話を聞いたりするなど関係が深まった一年でした。それから今年全国デビューを果たしたミュージシャンの松尾優さんのデビューCDに名前をクレジットしていただく光栄にも預かりました。また東映の高橋剣さんと京都ヒストリカ国際映画祭の衣川くるみさんとウェブの企画(京都ヒストリカ国際映画祭(日本語版) | ENJOY KYOTO)もやったりして、自分のなかでひとつ体系ができたなというか、新しい動きもなんとなくですけど始まっています。もっと立体的なこともできそうなお話もあったりします。

考えてみれば高校生のころ、自分は小説も書いて映画も作ってイベントも主宰して音楽も自分で選んで、そういうことが自分にはできるしできる場がないかなあと、ずっと考えていました。まあ若さにありがちな妄想なんですけど、でもその当時なかったものがいまは3つあります。それは先にも書いたようにたくさんの人たちと出会ったこと。それとコピーライターの仕事をやってきたなかで獲得した実力とそれに裏打ちされた実行力。それともうひとつはインターネットです。

ネットができてブログが隆盛を極めたころ、個人がメディアを持てるということで、なんとなく一瞬あっちこっち湧いたんですよね。でも個人のブログは見に来る人がかなり多数いないとメディア的には成り立たないし、そもそも個人がメディアをもっても継続的に有意義なことを発信し続けるには限界があります。結局は有名人や炎上商法がPVを稼いでおしまいみたいな感じもここ数年あった気がします。

でもそんななかでENJOY KYOTOという正真正銘のメディアを持てたことは、これまでのそういう意味でのインターネットとの付き合い方とは根本的に変わってくると思っていますし、高橋剣さんと京都ヒストリカ国際映画祭のコンテンツを作ったことで、その思いはいっそう強くなりました。しかもなんせ英語で発信できるわけですから、ワールドワイドウェブの機能をきちんと活かせるわけです。高校生の頃に妄想をいだいてたような、個人の思いつきを誰かといっしょになって世界中に発信すること、これが(少なくとも環境としては)正真正銘可能な状況がいま目の前にあるわけです。これはだれだってワクワクすることだと思うんです。

ということで、現地メディアとしての現物紙面もこれまで通りがんばっていくのですが、来年はウェブの方でもすこしずつではありますがいろいろと新しい試みをはじめていきたいなと思っています。来年はさらに外国人観光客の増加が見込まれていますし、それはそれとしてきちんとそうしたニーズにこたえるメディアとしての機能をこれまで以上にやっていくんですけど、ぼくはその先を見据えています。ぼくが「住みたくなる京都」をENJOY KYOTOのコンセプトワードに据えたことが新しい意味を落ち始めるフェーズがぼくにはもう見えています。2015年元旦配布の新年号であるIssue8は、その一端が感じられる紙面になっています。では来年もどうぞ皆様、よろしくお願いします。あ、よく言われるのですがいまもコピーライターの仕事もやっていますのでここに記しておきます。本業だけあってやはりそこから感じることも多いのでそっちの仕事も遠慮なくお申し付けください。ではでは、皆さま良いお年を!

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京都ヒストリカ国際映画祭とパトリス・ルコントとのインタビュー

バタバタでブログやSNSどころでもなかったのでずいぶんご無沙汰してしまいました。

12月のはじめ、京都ヒストリカ国際映画祭の取材の中で機会を得たパトリスルコントのインタビューをENJOY KYOTOのウェブサイトで公開しています。思うところあって今回は日本語版もありますので年末年始の時間にでも読んでいただけたらと思います。

第10回特別編 パトリス・ルコントインタビュー | ENJOY KYOTO


ぼくは京都ヒストリカ国際映画祭についてはENJOY KYOTOを始める前の3年前、第3回のときに実行委員の衣川さんからお招きいただきいちど映画祭に伺っていました。それで今回その衣川さんからのお話があり、またもともとぼく個人的に、京都国際映画祭よりも京都らしく、そして国際的な意義ある映画祭だと感じていたので、積極的にお手伝いしたいという気持ちがあって、それで始まったのが今回の対談プロジェクトでした。

結果的には時間的な問題とぼく個人の準備の甘さがあって、有効な事前告知や周知活動につなげられらなかったのですけど、それでも快く受け入れていただき、世界的巨匠であるパトリス・ルコントとの取材もセッティングいただけて本当に光栄でした。
あらためて衣川さんと高橋剣さんに感謝したいです。そして。できればその高橋剣さんとの対談1回目からじっくり読んでいただけたら、このパトリス・ルコントとのインタビューの意味も、より深く理解いただけるのではないかと思います。

京都ヒストリカ国際映画祭(日本語版) | ENJOY KYOTO


高橋剣さんとの対談の中でも語っているのですが、映画祭だけでなく海外からの若手作家を招いてのワークショップなどもあり、時代劇は京都の観光、とりわけ海外からの観光という点でもとても有効なコンテンツだということに思い至りました。時代劇と観光を結びつけた考え方ってこれまであまりされてなかったと思います。

またいくつかのゲストハウスの知り合いに頼み、映画祭に外国人旅行者を誘ってみて感想などを聞くという試みもしてみました。残念ながらデータとよべるほどの数を取れなかったのですけど、こういうこともできるんだなとわかっただけでもぼくとしてはとても有意義なプロジェクトになりました。髙橋剣さんと衣川さんにはあらためて感謝を述べたいと思います。

ともあれ、ENJOY KYOTOとしてたぶんはじめて行う日本語コンテンツでもあるので、実験的な部分は大いにありますが、ぜひ第一話から第十話まで、読んでいただけたらと思います。