ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

フィンランドからの留学生が描く「日本人論」

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フィンランドから京都精華大学に留学で来ていたKiiaが一週間後に帰国するということで、彼女の日本での生活とそれを通じて彼女が日本を理解しようとしたプロセスを映像や写真、絵画など含むインスタレーションで表現した個展「日本人論」に行ってきました。
ここに乗せた写真はフリースタイルな茶道や書の作品が多いのですが、全体としてはトラディショナルな日本をイメージしたものはむしろ少なく、モダンでポップな雰囲気のもの、といってもいわゆるKawaiiとかガーリーな感じというよりはモノトーンのものが多く、若さや日常性、さらには日本に対する批評性も感じられ、それこそ精華大学の日本人学生が作ったと言われてもなんら疑問に思わないような内容になっていたのがとくに強く印象に残りました。
じつはKiiaとは半年くらい前にENJOY KYOTOの事務所でいちどお会いしていました。そのころに比べて日本語がすごく上手になっていて驚いたのですが、昨日はKiiaを事務所に連れてきてくれた平居紗季さんも交えていろいろお話しできて、とても楽しかったです。


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どうしても外国から本やニュースで見る日本はトラディショナルなイメージが先行しがちだと思うので、こういう若い作家さんが日本で活動してまた本国に帰ることで、いまのリアルな日本やモダンな京都のカルチャーや空気を伝えて行ってくれると、またひとつ理解や関心が深まっていっておもしろいことが生まれるんじゃないかなと感じました。



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かなりフリースタイルなお茶席。卵は誕生と変身のシンボルなんだとか。


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気高き方の徳が長く伝わること。京都の山と川のイメージなのかも。ここにも卵。


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地べたに敷くお布団は日本の生活様式ですよね。下宿生活そのままここに持ち込む意図があるんでしょう。



ぼくは以前より「グローバルというのは全世界が共通の価値観でひとつになることではなく、互いのローカルを認め合いながら、ローカルがローカルのままで別のローカルとつながることだ」と言ってきました。そして、だからこそことさら異国の人との違いを強調するのではなく、表面的な差異のその向こうにある共通点をさがしながら、互いの文化をリスペクトしあえる関係を作っていきたいと考えてきました。Kiiaの個展からは、またひとつそのヒントをもらったようにも思いました。やっぱり異文化と交流し、価値を共有していくうえでのポイントは「日常性」の中にこそ多くあるのだなということ。そしてそれは、ENJOY KYOTOを作るうえで流れている自分の方向性にも通じる点でもあるとぼくは思っています。

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ぼくが紗季さんを、紗季さんがKiiaを、Kiiaがぼくをパチリ!

20年前の、きょうのできごと

ぼくは黙祷というものあまりが好きではありません。祈りはひとりでひっそり捧げられるべきものだと思うからです。それからこういうことなんかで美辞麗句を並べてなにかを言ったような気になるみたいなのもすごく嫌悪感があります。そんなことを言うくらいなら黙っている方がいいとぼくは思っています。
それでも、自分が初めて体感した大きな地震であり(東日本大震災は関西では揺れそのものは小さかったですから)、その阪神大震災からちょうど20年の区切りを迎えて、自分もなにか書いてみようと思いました。

書くにあたって考えたこと。それは、まずあの日の朝に家族や自宅を失った人たちは、なにがあっても1995.1.17のことを忘れることはないだろうということ。そして、ではそうではない自分のような人間がこの体験を忘れないためにどうしたらいいだろうと考えました。東日本震災の時も思ったけど、寄付とかボランティアとかいろいろあるけど、それさえもなかなかできないという人のほうが多いだろうし、でもだからってその人たちが悪い人であったりするわけではないし、そういう自分を蔑む必要もない。では、自分も含めそういう名もなき無力な人間ができること。それは、そのとき自分がいったいなにをしていたかを記録して共有することではないかなあと思いました。むしろそれだけでじゅうぶんというか、それこそが大事なのではないかと思ってこれを書きました。1995年1月17日の早朝の記録です。



20年前の早朝5時46分。そのとき、ぼくは前夜から徹夜で本を読んでいた。突如揺れが来て目の前の本棚が倒れそうになり足元が立ってられないくらい動いていた。当時、関西では地震はほとんどなかったので、ぼくはそれまで大きな地震というのはビルの上部がグラングランと振り子のように揺れるイメージを持っていたのだが、その地震では地面そのものが左右に大きく動いている感覚だった。本棚を抑えるのに精一杯で体感では揺れは10~20秒くらい続いたように感じた。おさまったときに「これはえらいことになった」と直感した。
揺れがおさまってリビングにいくと父親の弁当を用意していた母親が食器棚を抑えていた。父と兄弟たちが集まってきてとりあえずテレビをつけた。震源はわかっていたが停電で現場の状況がわからないという状態がけっこう長く続いた印象がある。宇治の実家にいたぼくはあの京阪が止まっているのでこれはヤバいと感じた。
明るくなってきてまず大阪の様子がわかってくる。神戸はまだ。ヘリが飛んでようやく神戸の街が空から映し出されて事態が把握できる。見たことのない状況に言葉がなかった。火災のない地域は一見大丈夫そうに見えるがカメラが寄った時「え!この一帯の建物ぜんぶ潰れてるの?」と驚いたのを覚えている。
そこからは皆さんご存知の大型ビルの横倒しや長田の大規模火災、阪神高速の倒壊など信じがたい映像の連続だった。当時なんとなく「とにかくこれは見ておかなくてはけない」と思いながらずっと見ていた記憶がある。京都は神戸から距離もあったので揺れは激しかったが知る限り被害はほぼなかった。
あの朝ぼくは23歳で、通っていた映画学校も中途半端で辞め、映画をやりたいと言いながら実態はフリーターで女の子とも別れたばかりで未来がまったく見えないどん底の時期だった。でも震災でたくさんの人が亡くなって生き延びた人も困窮している中で、いまの自分の生き方というものを省みたときに、なにかとても悪いことをしているような気持ちになったことを強く覚えている。
何人かの友人が神戸で被災はしたが、それでもみな生きていた。自分も生きねばと思った。「生きてるんならちゃんと生きろ」。それがぼくにとっての阪神・淡路大震災だった。

この話には、少し長い後日談がある。ぼくが小学校・中学校のときに仲良しだったある友人がいる。彼は小さいころからアトピー性皮膚炎でぜんそくを併発していた。家の方角も同じだったのでよく一緒に下校していた。ときどき彼は発作を起こし、そのたび吸入器を使用した。ぼくはそのあいだじゅうずっと彼の背中をさすった。皮膚炎のざらっとした彼の背中の感触をぼくはいまでもよく覚えている。
高校進学のときに別の高校に行くこととなり、それを機に彼とは疎遠になってしまった。噂では何浪かして神戸の大学に行ったと聞いていた。
阪神・淡路大震災から数年経った頃、とある知人から連絡があり、その彼が亡くなっていたことを聞いた。おさまっていたはずのぜんそくの発作が起こり、神戸で一人下宿していた彼はそのまま吐しゃ物を喉に詰まらせて亡くなったということだった。
彼が神戸の下宿で亡くなったのは、1994年の12月のこと。もしそのときそばに誰かがいて彼の命を救っていたとしても、結局はその1か月後の震災で死んでいたのかもしれない。彼が住んでいた地域は被害の大きな地域だったからだ。彼は病気がちで高校を多く休み、卒業後勉強して苦労してようやく大学に入った。その大学のある神戸で彼は死んだ。小さいころから患っていた病気での死ではあったが、そこを乗り越えたとしても、いずれ震災が彼を圧し潰したことだろう。人生とはかくも皮肉なものかと思った。病に屈して人生を諦め、神戸の大学になど行かず宇治の自宅で(その当時のぼくのように)親のすねかじりをしていれば、逆に彼はいまも生きていたかもしれないのだから。
彼のお母様から聞いた話では、中学校の修学旅行のとき彼は病気のこともあり行くのを嫌がった。ところが僕が「もし発作が起きたらまた俺がさすってやるからぜったいに来い」と強く誘ったのだという。そのエピソードはぼく自身はまったく覚えていなかったのだが、彼はそれをとてもうれしそうに話していたのだそうだ。
震災から20年というのは、ぼくにとっては彼が死んで20年ということでもあるのだった。

2014年の最後に

9月以降はほんとうに忙しくてもともと更新頻度の少ないこのブログは、さらに過疎化していたのですが、今日は大晦日ということで軽く一年を振り返っておこうと思います。

今年はずっと20年くらい好きで聴き続けてきたくるりつじあやのさん、高校時代からテレビで見ていたジェフ・バーグランドさん、年末にはパトリス・ルコントにまでインタビューができました。それから川尾朋子さんや小嶋商店のお二人、大森準平さんに青山洋子さん、京都の名だたる作家さんや職人さんとも、メディアにありがちな「単に取材しましたよ」ではなく、継続的にお会いしたりお話を聞いたりするなど関係が深まった一年でした。それから今年全国デビューを果たしたミュージシャンの松尾優さんのデビューCDに名前をクレジットしていただく光栄にも預かりました。また東映の高橋剣さんと京都ヒストリカ国際映画祭の衣川くるみさんとウェブの企画(京都ヒストリカ国際映画祭(日本語版) | ENJOY KYOTO)もやったりして、自分のなかでひとつ体系ができたなというか、新しい動きもなんとなくですけど始まっています。もっと立体的なこともできそうなお話もあったりします。

考えてみれば高校生のころ、自分は小説も書いて映画も作ってイベントも主宰して音楽も自分で選んで、そういうことが自分にはできるしできる場がないかなあと、ずっと考えていました。まあ若さにありがちな妄想なんですけど、でもその当時なかったものがいまは3つあります。それは先にも書いたようにたくさんの人たちと出会ったこと。それとコピーライターの仕事をやってきたなかで獲得した実力とそれに裏打ちされた実行力。それともうひとつはインターネットです。

ネットができてブログが隆盛を極めたころ、個人がメディアを持てるということで、なんとなく一瞬あっちこっち湧いたんですよね。でも個人のブログは見に来る人がかなり多数いないとメディア的には成り立たないし、そもそも個人がメディアをもっても継続的に有意義なことを発信し続けるには限界があります。結局は有名人や炎上商法がPVを稼いでおしまいみたいな感じもここ数年あった気がします。

でもそんななかでENJOY KYOTOという正真正銘のメディアを持てたことは、これまでのそういう意味でのインターネットとの付き合い方とは根本的に変わってくると思っていますし、高橋剣さんと京都ヒストリカ国際映画祭のコンテンツを作ったことで、その思いはいっそう強くなりました。しかもなんせ英語で発信できるわけですから、ワールドワイドウェブの機能をきちんと活かせるわけです。高校生の頃に妄想をいだいてたような、個人の思いつきを誰かといっしょになって世界中に発信すること、これが(少なくとも環境としては)正真正銘可能な状況がいま目の前にあるわけです。これはだれだってワクワクすることだと思うんです。

ということで、現地メディアとしての現物紙面もこれまで通りがんばっていくのですが、来年はウェブの方でもすこしずつではありますがいろいろと新しい試みをはじめていきたいなと思っています。来年はさらに外国人観光客の増加が見込まれていますし、それはそれとしてきちんとそうしたニーズにこたえるメディアとしての機能をこれまで以上にやっていくんですけど、ぼくはその先を見据えています。ぼくが「住みたくなる京都」をENJOY KYOTOのコンセプトワードに据えたことが新しい意味を落ち始めるフェーズがぼくにはもう見えています。2015年元旦配布の新年号であるIssue8は、その一端が感じられる紙面になっています。では来年もどうぞ皆様、よろしくお願いします。あ、よく言われるのですがいまもコピーライターの仕事もやっていますのでここに記しておきます。本業だけあってやはりそこから感じることも多いのでそっちの仕事も遠慮なくお申し付けください。ではでは、皆さま良いお年を!

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京都ヒストリカ国際映画祭とパトリス・ルコントとのインタビュー

バタバタでブログやSNSどころでもなかったのでずいぶんご無沙汰してしまいました。

12月のはじめ、京都ヒストリカ国際映画祭の取材の中で機会を得たパトリスルコントのインタビューをENJOY KYOTOのウェブサイトで公開しています。思うところあって今回は日本語版もありますので年末年始の時間にでも読んでいただけたらと思います。

第10回特別編 パトリス・ルコントインタビュー | ENJOY KYOTO


ぼくは京都ヒストリカ国際映画祭についてはENJOY KYOTOを始める前の3年前、第3回のときに実行委員の衣川さんからお招きいただきいちど映画祭に伺っていました。それで今回その衣川さんからのお話があり、またもともとぼく個人的に、京都国際映画祭よりも京都らしく、そして国際的な意義ある映画祭だと感じていたので、積極的にお手伝いしたいという気持ちがあって、それで始まったのが今回の対談プロジェクトでした。

結果的には時間的な問題とぼく個人の準備の甘さがあって、有効な事前告知や周知活動につなげられらなかったのですけど、それでも快く受け入れていただき、世界的巨匠であるパトリス・ルコントとの取材もセッティングいただけて本当に光栄でした。
あらためて衣川さんと高橋剣さんに感謝したいです。そして。できればその高橋剣さんとの対談1回目からじっくり読んでいただけたら、このパトリス・ルコントとのインタビューの意味も、より深く理解いただけるのではないかと思います。

京都ヒストリカ国際映画祭(日本語版) | ENJOY KYOTO


高橋剣さんとの対談の中でも語っているのですが、映画祭だけでなく海外からの若手作家を招いてのワークショップなどもあり、時代劇は京都の観光、とりわけ海外からの観光という点でもとても有効なコンテンツだということに思い至りました。時代劇と観光を結びつけた考え方ってこれまであまりされてなかったと思います。

またいくつかのゲストハウスの知り合いに頼み、映画祭に外国人旅行者を誘ってみて感想などを聞くという試みもしてみました。残念ながらデータとよべるほどの数を取れなかったのですけど、こういうこともできるんだなとわかっただけでもぼくとしてはとても有意義なプロジェクトになりました。髙橋剣さんと衣川さんにはあらためて感謝を述べたいと思います。

ともあれ、ENJOY KYOTOとしてたぶんはじめて行う日本語コンテンツでもあるので、実験的な部分は大いにありますが、ぜひ第一話から第十話まで、読んでいただけたらと思います。

松尾優さんの全国デビューアルバム「Kiss and Fly」発売に寄せて

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今日はENJOY KYOTO Issue6で取材させていただいた松尾優さんの全国CDデビューアルバム「Kiss and Fly」の発売日でした。Twitterをちらちら眺めていると少なくないお店で売切が続出しているようです。こうやって自分が好きなアーティストの人気が着実に広がっていくのを見るのはとてもうれしいものですね。

*松尾優 OFFICIAL SITE*

Amazon.co.jp: Kiss and Fly: 音楽


じつはぼくが松尾優さんの歌をはじめて聴いたのはもう4年も前のことで、彼女がまだ大学生のころでした。それから時を経て、こうやって取材させてもらったり、なんとこういうかたちでレビューを書かせていただいたり、おまけに記念すべきデビューアルバムの歌詞カードのSpecial Thanksに名前を入れていただいたり。おめでとうであると同時に、ありがとうという感謝の気持ちでいっぱいです。


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フリーになって、京都に戻ってきて。ジャンル違いのものづくりの人たちと、いろんなかたちでコラボしたり現場に立ちあわせていただくことが多くなりました。それはぼくを勇気づけ、叱咤激励し、奮い立たせてくれます。そういう環境で仕事ができる、できているということにほんとうに感謝したいです。

くるりの岸田さんにお話を伺ったとき「カウンターって呼ばれるような音楽やカルチャーって東京とか大阪とかで生まれているんですよね」というようなことを仰っていた。「京都はというとそこまでいかない、ふつうっぽいけどちょっと違うっていう感じなのかな」。でもそれってぼくはとても大事なことなんじゃないかと思うんです。

若い時はとにかくとんがっていること、新しい音楽であることが最重要視されるんだけど、手あかにまみれる勇気というのかな、それなりに普遍性があってまっすぐでだいたいみんながあんまりキライにならない、じつはそういうものをつくる方がはるかに難しいし、息の長い愛され方をするんじゃないかって、40も過ぎるとねだんだんわかってくるんですよ。それで、そういうのがじつは京都の人は上手なんじゃないかってわりと思うんです。

松尾優さんの歌を聴いていると、そういうことを考えさせられます。ポピュラーミュージックの歴史を塗り替えるような斬新な音楽という感じのものでは決してないんだけれど、普遍的でまっすぐで、しっかりした技術に裏打ちされていてそれでいてポップでもある。気づいたら鼻歌で歌ってたりするような歌(CANとか鼻歌で歌えないもんなあ)。子どももいっしょに歌える歌(うちのひかるさんも歌ってる!)。たぶん年をとっても聴ける歌(モーターヘッドとかジューダスプリーストとかはさすがにもう聴かないしね)。

世の人びとは、いままで誰も知らなかった歴史を変えるような新しい発見ばっかり探してるようにメディアは流しているんだけど、本当はすごくふつうでちょっとだけいい、っていうようなものを求めているんじゃないかな。
もし、いいね!って思ったらいちど松尾優さんの歌を、できれば「ながら」じゃなくて、ただただ音楽を聴くための時間を1曲わずか3,4分でもいいからとってもらって、眼を閉じてじっくり聴いてみてください。それでぜひ一家に一枚、置いておいてもらえたらなあと思うのですよ。



教室の窓から_MV / 松尾優 - YouTube

奇跡 くるりへの取材

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外国人向け観光フリーペーパーのENJOY KYOTO9月号を「くるりと音博」を中心に京都の音楽ネタでいこうとぼくが言ったのはじつは3月の初めごろ。もう半年も前のことでした。きっかけは3月にメルボルンに行ったときに「あ!」と気づいたことがあった。それは、海外旅行者が異国に地に降り立って、まず空港のアナウンスとか、街の人がおしゃべりする聞き慣れない当地の言語にはじまり、教会の鐘の音、日本とは違うパトカーのサイレンやクラクションの音などなど、まるでそれまで忘れていた野生の感覚を取り戻すみたいに、無意識のうちに耳からの情報に注意が向けられるように感じられるということに、ふと気づいたんですね。

あと、旅から帰って自宅のベッドに沈み込んで目を閉じたとき、ふとフラッシュバックしてくるのは、出会った人々の顔でもなければ、絵葉書のように美しい観光地の風景でもなく、やはりその街の「音」だったりすることがけっこうあります。それはまるで、日本では耳をふさいで生活していたのかとさえ思いたくなるほど、「音」が鮮やかに感じられる、とくに海外の旅先では聴覚が研ぎ澄まされる、という点に気づいたことが、この企画のスタートラインだったんです。

いっぽうで、従来のメディアや行政主体の海外向けの観光PRというもののなかに「音」「音楽」という視点がわりとすっぽり抜け落ちているんじゃないかなという事実に辿り着いた。そこで、「京都」「街の音」「市民」「生活」「音楽」「歌」「参加する観光」といったキーワードを並べてみたとき、もっともふさわしいのが「京都音楽博覧会」だと直感した、というわけです。

そこで早速あらためて音博のサイトを見てみると、そのなかでちょうど岸田さんは音博について「文化と芸術、そして国際交流の街、京都。そんな街並みにふさわしい素敵な音楽博覧会をめざします」と語っていらっしゃいました。佐藤さんも「世界の音楽の博覧会をくるりの地元である京都で開催するというのが音博のスタートからの理念」とおっしゃっていました。さらに公式ウェブサイトの主催者あいさつの最後は「新しい音楽文化をこの京都の街から世界に向け発信し、参加していただく全ての人と一緒に愉しむ一日にしたいと思います」と記されています。
なんだ、さっき並べたキーワードとほとんど一致するじゃないか!これはもうやるしかない!そんな感じだった。そして、こういうときはわりとミラクルが起きるもので、準備をしていくうちにそれは実際に起きていくわけです。

まずENJOY KYOTOではもともと、歴史的文化遺産やいわゆる名所・観光地だけではない、過去と未来につながる文化、街をつくっている市民ひとりひとりのなかに息づく京都らしさ、現代的な生活スタイルの中にあっても、それでもどうしても染みだしてくる普遍的な慣習やカルチャーを紹介し、京都の独自性の中から逆に世界との共通点を見いだしたいと考えてきました。またSNSなども使いながら、京都で世界のいろんな人たちが友達になれるメディアを作ろうというテーマを掲げています(このあたりはまだまだこれからです)。

伝統をありがたがるだけじゃなく、コンテンポラリーな同時代性の中に、遠い未来や過去を見出していくことも、ある意味で京都らしさではないかなあと。ある意味これはとても京都的な時間の感覚かもしれないけど、たとえば千年後(!)もしかしたら音博も、いずれは祇園祭や五山の送り火のように、秋の初めに行われる伝統的な京都のお祭りとして海外の観光客が訪れるイベントになっているかもしれないわけです。ぼくらはいま、その黎明期を見ているのかもしれない。しかもちょうど今年の音博はレバノンやアルゼンチンなど例年以上に多様な国の音楽家が集まることが決まっていました。そんなことも、なんとなく導かれたような感じもして、いまENJOY KYOTOで取り上げなくてどうするんだっていう思いが日に日に大きくなっていったのでした。

とはいえ、ギャラも出せない無名のフリーペーパーで、個人的つてもなく、どうやってブッキングすればよいかと、いろんな人を介してお願いしようとしては見たものの、当然なかなかかんたんにはいかず、そこまでにけっこう時間がかかってしまいました。結局6月に入ってようやくアポが取れ、22日の誓願寺の公開収録の合間に時間が取ってもらえそう、というニュースが飛び込んできて、いやあそれはもうすごくうれしかった。

と同時に、本当にインタビューが実現できるかどうかわからなかったから、その時点ではまだ綿密に自分のなかで撮影のイメージが練れていなかったので「これは困った」というのも反面ありました。お寺でやると決まったのは撮影のほぼ10日ほど前のことでしたから、けっこうプレッシャーはありましたね。おまけに前回も書いたように事前の打ち合わせもなにもない完全なぶっつけなので、なにをどこまでやっていただけるのかも、正直その日にご説明してからみたいな状態でした。でもなんていうか、もう逆にここまできたら開き直るしかないというか、こっちもそれなりに修羅場はくぐって来てるので、イザとなったらなんとかなろうだろうと。ひさしぶりに緊張感を楽しむ感じでもって臨める撮影になりました。

でも撮影当日、結果的には幸いなことにこちらがイメージしていた撮影に対し、くるりさんサイドも快く承諾いただけて、手前味噌ですけど冒頭で掲げたようなホントに素晴らしい紙面になっています。インタビューも掲載していない話もたくさんあって、ひとつひとつが楽しくも意義深いお話しばかりでした。あれ、どっかで全文掲載とかできないかなあと思うくらい、すごい楽しいインタビューになりました。この場を借りて、くるりの皆さん、それからマネージャーさん、あとこの誓願寺での公開録音イベントの合間をお邪魔してわれわれの取材撮影が終わるまで待っていただいたFM802の関係者の皆さまにも感謝の意を述べたいと思います。ありがとうございました。

世の中ではこのところ音楽が売れないとかっていわれていて、いろいろぼくも考えるとことがありました。小学校1年生の時に入院した際に、ラジオで高島忠夫の全国歌謡ベストテンを毎週聴いてて、そこからゴダイゴとかツイストとかいわゆるポップスが好きになって、それから中学生高校生の時は、いちばん音楽を聞いた時代だった。当時はアナログレコードで、レコード屋さんで買ってきたレコードの封を切ると塩化ビニールの独特のツンと来る匂いがして、ジャケットの紙もまだ印刷したての紙とインクが放つ匂いがしてて。それで当時はまだネットなんてなかったですから、針を落とす瞬間までどんな音楽かまったくわからない。好きなアーティストでも新しいアルバムでまったく違う音楽に取り組んでいたりすることがあるから、針を落として最初の一音がバッと鳴る時の、あの感動とかワクワク感とかが、ほんとうにいまでも忘れられない。だからそんなふうに、少年時代はほんとうに音楽に救われたようなところはあるんで、恩返しじゃないけど、なにか出来たらという思いも、ちょっとあったりもしました。

ちょっとだけ偉そうに言わせてもらうと、たぶん音楽の聴かれ方が変わっていることに、きっとまだ業界がついていけてないだけで、お金を出しても聞きたい音楽というのは、くるりをはじめ、まだまだちゃんと今後も聴かれていくとぼくは思っています。その環境が変わればまた、音楽はむしろこれまで以上に聴かれていくんだろうと、ぼくはどこかで思っています。今回の「観光と音楽」というのも、ひとつそういう取り組みとしてヒントになるかなあという思いもありました。しかもちょうど、くるりの皆さんは、ちょうどマネジメントも自分たちでやられるようになられたばかりで、ほかにもハイレゾ音源の配信とか、いろいろと新しいチャレンジをされています。だから、まったくの偶然なんですけど、そういういくつもの重なる思いがあって、今回の取材につながりました。

ほんとうにあらためて、くるりの皆さんありがとうございました。もうすぐ音博(京都音楽博覧会2014 in 梅小路公園)です。そしてその前には話題の新譜(くるり ニューアルバム「THE PIER」特設サイト)も発売になります。たぶんこのアルバムはぼくにとって、小学生のころ学校から帰ると実家の近所にあったレコード店「イケガミ」にマイケルジャクソンの「スリラー」やYMOの「浮気なぼくら」を買いに走り、家に帰って針を落としたあの日の夕方のような、ワクワクとドキドキがよみがえる、そしてきっと長く聴くことになる大切なアルバムになるんだろうなあと、いまから楽しみでしょうがないんだよなあ。


くるり Liberty&Gravity / Quruli Liberty&Gravity - YouTube



Quruli - Kiseki (Live) - YouTube

ENJOY KYOTO Issue6:京都音楽特集号について

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この夏はほんとうにすごい夏でした。なんといってもくるりのメンバーにお会いしたのが6月22日の誓願寺。そこからつじあやのさん、松尾優さん、小松正史さん、たゆたう、mocaさんと、さまざまなミュージシャンの方々にインタビューをしました。終わってみての感想としては、正直言ってすんごい疲れました。理由は、今回いままでとは全く違うつくりかたにチャレンジしたということが大きかったと思います。
雑誌や編集系の仕事ははまだしも、とりわけ広告の世界だと、事前の準備とすり合わせをかなり綿密にやって、もうほとんど隙がないくらいにビシッとうめてですね、それで現場はほとんどそのイメージの再現だけみたいな状態にして向かうことが多いんです。そこまでやっても不測の事態というのは起きるときには起きるのですが、そういう場合でもそれまでの綿密な準備があったからなんとか対応できるみたいなところがけっこうあるんです。

それが今回は、みなさん東京に拠点があったり、ツアーの真っ最中だったり、新しいアルバムの準備期間だったりということもあり、事前の顔合わせや打ち合わせはもちろん、気軽に何度もやりとりをするということがそうそうできるわけじゃないところからのスタートでした。とりわけ、くるりの場合は共通の知人を介してブッキングをお願いしていたこともあり、直接メンバーの皆さんやマネージャーさんとぼくが事前にお話しできていたわけではなかったのです。ですからその人づてに事前に「前向きな感じで出ていただけるようですよ」というお話を伺ってはいたものの、どこかで「ほんとにだいじょうぶなのかな?」とかね、まあなんといってもこちとら無名のフリーペーパーですしね。やっぱりそういう緊張感はぼくのなかにはずっとあったんです。

くわしくはまた書きたいと思うのですが、たとえば巻頭見開きでドーンと撮ろうとしていたメインカットも、現実として撮影の場所やシチュエーション自体のコンセンサスが取れてないとか、そういう不安定要素がけっこうあった。なのでそこすらも、実際当日になって蓋を開けるまではなにがどうなるかはわからない、という想定で臨んでいました。ライブ直線の楽屋でまだアレンジうんうん考えてて、舞台出てから皆さんに伝えてるみたいな。「できないよ!」って言われたらどーすんだ、みたいなね。ほんとにここまで自分で作り上げてみるまでうまくいくかわかんない、インプロビゼーションに近い形でつくったENJOY KYOTOというのは、たぶんはじめてなんじゃないかな。あ、Issue2で書家の川尾朋子さんにアドリブで「今年を表す漢字を一文字で」とか相当なムリを言って書いていただいて以来かな。ともあれ、かつてぼくが若かりし頃に自主映画をつくってたときの現場の緊張感を思い出しました。

結果的にはうまくいったし、こういうやりかたで作ってみて良かったなあと今は思います。たくさんのアーティストの方々に刺激されて、自分も元アートを志向していたときの感覚がよみがえってくる感じでした。だから、個人的には現場はすごく楽しかったですね。すんごい緊張感でもあるんだけどね。勝負してるというか、勝負を楽しんでる感じがありました。ああ、こういう作り方もできるんだなあと、またひとつ引き出しが増えた夏でした。

とまあ、そういう風に作られた今回のENJOY KYOTOのIssue6音楽特集号はいよいよ本日リリースです。もうひとりのライタ-が担当した10FEETやYeYe、それからMUSEの行貞さんとMetroの林さん、10FEETのTakumaさんの3人による鼎談もお楽しみに!



【ENJOY KYOTOおもな設置先】
京都市内ホテル(アーバンホテル京都、ホテルグランヴィア京都ハイアットリージェンシー京都、グランドプリンセスホテル京都、ウェスティン都ホテル京都、京都ホテルオークラ、ホテル日航プリンセス、京都ブライトンホテル、ホテルカンラ京都、ホテルアンテルーム京都、イビススタイルズ京都ステーション、京都糸屋ホテル)、旅館、ゲストハウス、飲食店、社寺仏閣、ヤサカタクシー、新風館京都国際マンガミュージアム、嵐山駅 はんなり・ほっこりスクエアなど。その他、東京都、関西空港滋賀県ホテル・旅館数カ所などにも。