ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

インフルエンザで倒れてた1週間のこと

おつかれさまです、インフルエンザでじつに1週間まるごと死んでおりました松島です。多方面にわたって多大かつ長期にわたるご迷惑をおかけいたしましたことを、ここで心よりお詫び申し上げたいと思います。で、せっかくなのでここに備忘録というか、今回の病状や経緯などを自分なりのメモとして置いておこうと思います。

まず14日の日曜夜から40度近い高熱ともうほんとに何も考えられなくなるくらい激しい頭痛にまる4日間襲われました。とくに高熱と頭痛のために頭がグルングルン回ってうなされ続けて眠れず(ずっと連絡しなきゃいけない人へのメールやプレゼンを控えていた仕事の企画書を追われながら妄想の中で書いている状態でした)、ほぼ24時間ベッドで横になっているにもかかわらず頭痛でのたうちまわって眠りに逃げることすら許されないというのは、なかなかの地獄でした。

またほとんど食べられないのでけっこう痩せましたし(うどんだけはすこしだけ食べてました。うどん最強!)、タミフルの副作用で吐くし(「タミフルが効かなくて」と「ポケベルが鳴らなくて」は似てるYoネ!とかそういうしょうもないギャグを言う機会もなく)、あらゆる関節は痛いし、喉も痛くて咳が出るいっぽうで声は出ない。見たことのないような大きな痰に血が混じって出てくるし、もとから副鼻腔炎なので鼻水は出っ放し。盛りの中学生かというくらいのハイペースでティシュが消費されていきました。とにかくもう下痢以外のすべての症状がいっぺんに来ている状況でした。ああ、これはふつうに年寄り死ぬな、と思いながらポカリでしのぐ日々でございました。

19日の金曜になってようやく熱が収まり始めたので、すこし楽にはなったのですが、激しい頭痛と咳は収まらず、眠れないのは相変わらずで、このしんどくて頭も痛くて眠りに逃げたいし、眠って体を回復させたいのに眠ることさえできない、というのは本当につらかったです。横になると咳が出るし鼻が苦しくなって頭もよけいに痛くなるので、夜中に何度も起き出しては約2時間ごとに深夜にリビングでダウンジャケット着たままたた上を向いて座っているというのは、ほんとうに絶望的というかもういっそ楽になりたいとさえちょっと真剣に思いましたね。結局まともな生活にもどったのがほんの昨日くらいからでした。その間にまず長男が倒れ、続いて奥さんにまで感染するというリアル野戦病院状態、しかもそんなウイルスまみれの家に年寄りを手伝いに来させるわけにもいかず、家族みんなに死相がでているなか、ひとりどこ吹く風で気丈にも忍たま乱太郎仮面ライダーゴーストの元気な歌声を、インフル渦で沈む家庭に響かせ続けた3歳次男に、個人的には国民栄誉賞を差し上げたい気持ちでいまはいっぱいです。

最後に少しマジメな話をすると、今回はいろいろと考えました。簡単にいうとフリーランスのリスクマネジメントとかそういうありがちな話です。
今回ちょうどENJOY KYOTOの原稿訂正から最終チェックにかかるタイミングだったのですが、インフルはおおむね2,3日で熱が下がると一般的に言われているので、ぼくの思惑としては水曜日に回復できればなんとか間に合うという算段でした。とにかく月曜と火曜日は電話を取ることも、起き上がることすらできない状況だったので水曜が勝負だ、と。これが甘かった。

水曜日になっても状況はまったく改善せず、まだまともに頭を働かせて指示を出したり判断することができる状況ではなかった。そこではじめてヘルプをかけようと判断したのですが、逆にそれを伝える前に他のスタッフのほうから「替わります」との連絡が来たのでこれに助けられました。ひとつひとつを詳細に説明していくだけの余裕はまだなかったので、わかる範囲で人が直接入ってバックアップしてもらえるならと、もう本当に余裕がなかったので任せきりにすることにしました。これを本当はもうすこし早くすべきだったと反省しています。

楽観的な独断による甘い見通しというのがチームでの仕事では一番やってはいけないこと。そのことはかつてデザイン会社で役員をやってチームを率いてきた立場からよくわかっていたつもりだったのですが、独立して3年が経ち、ある意味個人で働くことに慣れてしまったからかすっかり忘れてしまっていました。それと、もともと「とにかく仕事を途中で放り出すことだけはしたくない」という個人的な性質も重なることで、悪意がなかったことが結果的にはより大きな迷惑をかけてしまう、というこれまたありがちな結果を引き起こすことになってしまいました。

しかもご迷惑はチームスタッフだけではなく、クライアントや納品先、プレゼン用の作業を控えていたパートナーなどにもかなり心配や実害あるご迷惑をかけてしまったのですが、ここで思うのは、皆さんが寛大に対応していただけたことが印象的でした。ぼくの担当する作業をすべて肩代わりしてくれたENJOY KYOTOチームスタッフみんなをはじめ、途中で仕事から離れてしまったにもかかわらず身体の心配をいただいた宝酒造のFさん、Deco Japanの菅井さん、豊島さん、それからふれあい館のDさん、またプレゼンを控えた状況で限られた対応しかできないことに理解を示し身体の心配までいただいた印刷会社のディレクターさんやウェブ制作会社の社長さんなどなど、今迄では考えられない寛大な対応に本当に助けられました。

先にも書いたようにかつて大阪のデザイン会社でチームを率いていたころは、けっこうもっと厳しかったというか、ちょっと別のものが対応しますと伝えるとあからさまな懸念を示され、なかには「それは困る!」と臆面もなく電話口で怒鳴る方までいました。まあ会社を担うチーフとしていまより直面していたプレッシャーそのものが大きかったのもあるにはあると思いますが、やはり時代が変わったんだなあという風にぼくには感じられました。

だからこそ、もっといろんなことを、いろんな人に委ねた方がいい。そうあらためて思いました。自分でできることはぜんぶ自分一人でやらなければとつい思いがちなのですが、ひとつのプロジェクトになるべくたくさんの「スペシャルサンクス」を書きこむ余地を与えた方がいい、そう思いました。実際、今回はあらためて自分の仕事というのは、ほんとうにたくさんのスペシャルサンクスでできているんだなあと実感する機会になりました。映画なんかと同じで、キャストやスタッフの少ないチームではどうしたってインディーズのこじんまりした映画しか作れません(それにはそれなりの良さももちろんあります)。いっぽうキャストやスタッフやその他名もなきエキストラ含めて、やたらたくさんの名前が連なっている映画はきまって大作です。たとえ主演・脚本・監督がすべて自分であるこのわが人生とやらであったとしても、それをより大きなプロジェクトにしたいのなら、やはりエンドロールにたくさんの人名が連なるようにしておいた方がいいということ。これが今回のインフルエンザ渦からぼくが学んだ教訓ですね。

失敗しよう。2016年、年初の宣言として

2016年が明けて元旦のうちに、ひそかに今年のぼくの目標は「失敗しよう」だと掲げました。というのも、なんとなく昨年は「どうすれば失敗なく上手くやれるか」ってことに頭が行き過ぎていたような気がしたからです。もちろん失敗なく上手くやれるかを考えてプロジェクトを進めることは、ぼくのようにそれなりにキャリアがあって責任もあって40歳もとうに過ぎた人間にとっては、ある程度は必要なことです。しかし、そのいっぽうでそれを意識しすぎるあまり保守的になり、新しいチャレンジや前例のないことに、無意識のうちに消極的になってしまう、ということもあると思うのです。



そうするとまったく同じことをラグビー選手の五郎丸さんが話している記事をたまたま見かけました。

gendai.ismedia.jp




それからほぼ日手帳の昨日のページには「もう毎日、毎秒、失敗を許すっていうことですよ。恐れるんじゃなくて。失敗というものと仲良くやっていくっていうことも必要ですね」という舞台演出家のデヴィッド・ルヴォーの言葉が記されていました。

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GoogleのCMでは「初心者になろう」とわれわれに呼びかけています。


Googleアプリ:「初心者になろう。今年こそ。」編




MicrosoftのCMでオシムは「恐れることを、恐れるな」とぼくたちを鼓舞しています。


イビチャ・オシム/Number/松井大輔【 Surface Pro 4 CM】「ある編集者の戦い」編/Microsoft




いま世の中ぜんたいが、そういう時期なのだ。

そう確信しました。毎日のようにいろんな人がネットやなんかで叩かれて吊し上げられて、メインストリームから退場させられていくのを日々見ていると、どうしても保守的になってしまう。まるでたったひとつの正解があるかのような議論が飛び交い、それに合わないモノは不正解として排除し認めない。その結果ありもしないたったひとつの「正解」だけを探そうと行動が消極的になる。こうしたことに、そろそろ多くの人が閉塞感を感じているのではないでしょうか。

ただそれもなんとなくですが、今年からは潮目が変わるようなそんな気がしています。根拠はなーんにもないのですが、先のいくつかの符牒がそれを示しているように思うのです。子育てをしていても、子どもは失敗を叱ると途端に消極的になります。大人だってきっとおんなじなんです。チャレンジした者しか失敗できないのだから、失敗はもっと認められていい。そう思います。

もちろん45歳になる年の初めに堂々と「失敗しよう」と宣言するというのはいささか勇気がいったのですが、ともかくいい歳した中年のおっさんが、恥も外聞もなく、新しいことを引き受けてチャレンジして失敗して恥をかくのは、それはそれでなかなか楽しいことなんじゃないかなと、いまのところそう思っています。逆に30代ぐらいの方がどこかそういう外聞なんかを気にするようなところ、あったかもしれない。もう40も半ばになると、どうカッコつけたってたいしてカッコよくはないのだから。なので、どこかで失敗してるぼくを見つけたら「ああ、がんばってるんだなあ」とあたたかい目で見守ってくださいませ。今年もよろしくです。

時代劇にまつわる随想

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いま配布中のENJOY KYOTO Issue 13の巻頭特集は時代劇です。かつて京都が「映画の都」とか「日本のハリウッド」と呼ばれていた時代からはじまり、戦後GHQが発令した時代劇禁止令による時代劇暗黒の時代、その後に訪れた黒澤明羅生門」や溝口健二雨月物語」など京都の撮影所でつくられた映画が世界を席巻する時代を経て、昨今の没落へと至る経緯を駆け足で紹介しています。また「5万回斬られた男」として有名になり「ラストサムライ」でトム・クルーズとも共演された福本清三さんや、殺陣師の菅原俊夫さん、衣装の松田孝さん、美術監督の松宮敏之さんなどいま現役の職人たちへのインタビュー、そして最後には時代劇を世界へ発信する取組として「Kyoto Filmmakers Lab」や「京都ヒストリカ国際映画祭」までを網羅しています。

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この記事を書くにあたり、ぼくとしてはインタビューによる当事者への取材以外にも、京都の時代劇のことをあらためて調べてみました。京都の映画や時代劇に関するさまざまな本を読んだり、関連する界隈を自分の足で歩いてみたり、京都太秦映画村の資料室(ここは過去の映画のスチールやポスター、ビデオなどが膨大にあって一日居ても飽きない!)へ行ったりしてるうち、自分の家系というか両親の生家があった場所が、いずれも時代劇黄金期の京都の映画と何かしらの縁があったんだなあとわかって驚きました。

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日本初の映画スター・尾上松之助の墓は等持院にあり、それは現在、立命館大学のキャンパスの中にあります。クルマで立命館大学正門のゲートで警備員さんに「墓参りです」というとゲートを開けてくれてパスをくれる。そのままクルマでキャンパス内を奥まで走らせるとそこに「等持院墓地」があります。じつはうちの家の墓はその松之助の墓のすぐ脇にあって、小さいころから墓参りの時いつも通るたびに父が「これは有名な役者の墓なんやぞ」と言っていました。ぼくは子どものころはそんな古い役者のことなどよくわからないので「ふーん」としか思っていなかったのですが。ところがちょうどこの時代劇の仕事をしているさなか、叔父が亡くなり9月の納骨の際にひさしぶりにこの墓地にたまたま行く機会がありました。もしかしたらこのタイミングで叔父がぼくを連れてきたのかもしれません。ちなみに等持院境内には日本映画の父と呼ばれ尾上松之助を見出し多くの映画を作った日本で最初の映画監督・牧野省三の像も建てられています。

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そしてうちの父の実家でありぼくの生家でもある二条駅付近もまた日本映画発祥の地として知られ、二条城の南西、現在の中京中学校の南東角には京都で最初に作られた映画撮影所「二条城撮影所」跡としての碑が建てられています。ここで牧野省三尾上松之助とともに「忠臣蔵」を撮影したのですが、じつはこの1926年(大正15年/昭和元年)に撮影された映画のフィルムの完全版が最近発見され(尾上松之助の「忠臣蔵」、幻のフィルムを京都で発見:朝日新聞デジタル)、京都国際映画祭で上映されたのを母といっしょに見に行きました。これもまたタイミングというか「この機会にこれも観ておけ」と誰かに言われているかのような気がしました。

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また、うちの母親は下鴨出身で子どもの頃よく下鴨神社の脇にあった下加茂撮影所を見に行ったのだそうです。その際、近所に住んでいた役者さんで大部屋俳優の草分けとして知られる名脇役の汐路章さんによく肩ぐるまして撮影を見せてもらったのだと言っていました。汐路章さんといえば今回のENJOY KYOTOの取材で斬られ役の福本清三さんからお話を伺ったときにも名前が出て「おまえー!そこのけー!わしが映らんやないかー!って、よう怒られました。怖い先輩でした」と仰っていました。ある世代の方には映画「蒲田行進曲」のヤスのモデルと言ったほうがわかりよいかもしれませんね。そんな強面の汐路章さんは近所ではやさしいおじさんだったようです。ただ母いわく「役づくりなのか、ときどき黙っていることがあって、そのときはやっぱりすごく怖かった」と言っていました。

そして、たまたま現在ぼくが住んでいる界隈も、どうやら牧野省三尾上松之助が活躍した時代に映画に重要な土地だったとして多くの資料で目にすることができる場所でした。こうしてみると、かつて20年前に自分が映画を志して太秦の撮影所に出入りしてたことが、どうやら単なる偶然ではなかったのかもしれないと考えるようになりました。ぼくはおそらく運命の糸に導かれるようにして映画の世界へと引き込まれていったのだろうということです。結局のところぼくは映画人になるという夢はかなわなかったわけですけれど、こうしてずいぶん遠回りをしながらも時代劇や撮影所について書くことになるというのは、ほんとに数奇な運命を辿ってたどり着いた兄弟物語のような、なんとも不可思議なつながりを感じています。

ともあれ、このENJOY KYOTOの取材からはじまって、個人的な等持院墓地への墓参、それからENJOY KYOTO関連で「太秦江戸酒場 〜琳派の秋〜|UZUMASA EDO SAKABA」という太秦映画村で開催されたイベントや「京都ヒストリカ国際映画祭」への参加にいたるまで、夏の終わりから11月にかけて時代劇というものについてあらためて考える機会になりました。
お話を伺ったなかのひとり、美術監督である松宮敏之さんは「CGではなくセットで実際に作って撮影をすると、足元のぬかるみや風、本物の木の匂いを感じながら役者は演技をすることになる。それは確実に演技や絵に影響を与える」と言い、もっといえば「匂いも映るんだ」という話をされていました。かつて黒澤明は撮影前のセットに早くやってきて箪笥のなかに衣服が入っていないのを見つけ、着物を入れろと怒鳴ったというエピソードがありますが、そういう「見えないモノだって映る」という映画的真理のようなものは、おそらくまだここには残っているんだと思います。そしてぼくはそれを支持しています。
また床山の大村弘二さんはリアリズムと映画的リアリズムについて語ります。「いまはリアルにということでメイクなんかもナチュラルにしていこうといわれます。でもじつは髷を結うということはポニーテールをイメージするとわかるのですが、髪は上へと引っ張られるんです。すると目は自然に少し吊り上がってきます。つまり目張りを入れたアイメイクというのは古めかしい大仰なメイクなんかじゃなくて、むしろリアルな表現だったんですよ」と言います。

あと、映画監督の兼崎涼介さんが言っていた「間口の広い表現」ということについてもここしばらく考えています。なんとなくクリエイターは、いつの間にかマーケッターやコンサルの下請けになってしまったようなところがありました。でもそれもう古くないですか?という空気が、いまちょっとずつ流れて来ている気がするんです。ターゲットと表現技法と流通経路をマーケが決めてそれに沿ってモノづくりやってるうちに、いつしかコンテンツは間口の狭いものばかりになって、ニッチといえば聞こえはいいけど、そもそもの市場が狭いうえなかなか大きく育っていかないので、ほとんどのケースでクリエイターは食べていけなくなっている。というか、もうそろそろユーザーのほうもそういうマーケティングデータや市場ニーズとやらに基づいてかっちりコントロールされた、こじんまりとしたコンテンツに飽きてきたよね?というのをなんとなく感じているのです。今年の音博のときに八代亜紀さんがバーッと出てきて「雨の慕情」をあの振付をしながら会場の全員で歌ったときの一体感のような、みんなが知ってて瞬時に共有できる超ポピュラーコンテンツをそろそろ見たいよね、という期待感みたいなものがあるんじゃないかなと思うんですよね。

だからこそ、たとえば。京都の撮影所の職人さんをフル動員して、美術から大道具からものすごい本気でお金かけて、CG一切使わずオールオープンセットで、本格時代劇を作ったら、むしろしっかりと世界で勝負できる一大スペクタクルエンターテインメント映画が作れるんじゃないかなあ、と思うんです。なんというかぼくはいま、「じつはコンピューターでこんなことまでできるんです」じゃなくて、たとえば「人の力だけで巨大ピラミッドをつくる」みたいな、そういうものづくりのほうが逆に求められていて、観る人を驚かせたり感動させたりできるんじゃないかって、そんな風に思っているんです。

京都ヒストリカ国際映画祭でコロンビア映画「大河の抱擁」観てきました。

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京都ヒストリカ国際映画祭に行ってきました。昨年はプログラムディレクターの髙橋剣さんにロングインタビューを敢行(第1回「京都ヒストリカ国際映画祭誕生前夜」 | ENJOY KYOTO)したのですが、じつは最新のENJOY KYOTO でも京都ヒストリカ国際映画祭のことを紹介させていただいているのですが、映画祭の担当者さんでいつもお世話になっている衣川くるみさんから「じつは今回は例年になくけっこう外国人観光客の方が飛び込みで来場されてて、きっとこれはENJOY KYOTO効果です!」と言っていただきました。ほんとうに嬉しい限りです。

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さて、上映された映画は「大河の抱擁」というコロンビアの作品。日本ではこの映画祭でなければまずお目にかかれないだろうと思うのですが、じつはカンヌ国際映画祭でも「監督週間グランプリ」を受賞している実績のある力作です。先住民の村に白人の学者が研究でやって来て、という話はさして目新しいものではありませんが、この映画では主人公が先住民であり、つねに先住民サイドの目線で語られていくところがおもしろかったです(コロンビア映画だからあたりまえといえばあたりまえですが)。モノクロームの映像がとても美しく、ジャングルの原色や先住民の身体に施された彩色が、むしろモノクロであることによって際立っているように感じました。またこの映画はある幻覚作用を持つ植物をめぐって探検をする白人の学者と主人公である先住民の男の探検が中心なのですが、植物のもつ麻薬性や呪術的な場面の数々、それとアマゾンのゆらめく大河の流れとが相まって、見ている側もなにか幻覚を見ているかのような感覚に引き込まれていくような気がする魅惑的な映像でした。

ぼくが個人的に気になったのは、じつは本筋とはあまり関係のない(ように見える)、見逃してしまいそうなほんの小さな描写です。それは映画の後半のひとつのクライマックスで、探し求めていた植物が植生しているとある村に主人公と白人の学者がたどり着いた場面です。主人公の先住民はその村人たちが神聖な植物を「育てて」いることが禁忌であるといってその貴重な花を燃やしてしまいます。その刹那、どこからともなく銃声が鳴り響き、主人公らと共に村人が逃げ惑うのですが村人たちは口々に「コロンビア人が襲ってきた!」と叫んでいたのでした。われわれ日本人の多くは、南米の先住民に対する略奪・殺戮といえば、すぐにスペイン人やポルトガル人と考えがちですが、この映画はコロンブスの時代ではなく100年前の内戦時代が舞台。そして先住民に襲いかかっていたのがコロンビア人だった。しかもその襲撃シーンではコロンビア兵をいっさい映さず銃声だけで表現されていた。このことに、コロンビア人である監督のなんらかの意図のようなものを感じ取り、とても深く僕の印象に残りました。そのあたりもしかすると制作サイドのある種の配慮だったのかもしれませんが、はたしてこの場面が母国コロンビアでどんな評価だったのだろうと個人的には気になりました。

じつは上映後すぐ別館に移動して今回のヒストリカの目玉企画のひとつである、青木美沙子さんというロリータファッションのカリスマを迎えた「ゴスロリwithマリーアントワネット上映会」的な催しの様子を覗きに行くつもりだったのですが、「大河の抱擁」の直後に行われたラテンビート映画祭のプロデューサーであるアルベルト・カレロ・ルゴさんのトークがあんまりおもしろかったので聞き入ってしまいました。ラテンアメリカでいま映画製作がすごく盛んであること、各地の映画祭でラテンアメリカの映画が受賞したり、ハリウッドで活躍するラテンアメリカの俳優が増えている話などがとても興味深かったです。こういう上映後のトークショーで現場の方から貴重な話が聞けるのもこの京都ヒストリカ国際映画祭のおもしろさのひとつですね。「世界中の歴史劇を集めた映画祭なんて、この映画祭くらいだよ!」と、とある香港の映画プロデューサーにも太鼓判を押されたという京都ヒストリカ国際映画祭。今年は明日がラストですが、また来年も楽しみな映画祭だと思いますし、引き続きサポートしていきたいと思います。

www.historica-kyoto.com

衣替えと「街」の記憶


tofubeats(トーフビーツ)- 衣替え feat. BONNIE PINK - YouTube


きのうはちょうど衣替え。そして今日は、なんと「豆腐の日」でもあるのだそう。それでふとこの曲のことを思いだして、それでちょっと意味のない雑文を書いてみようと思い立ったのだった。ほとんど個人的なメモのようなもので、これまで更新頻度の少ないこのブログの中でも異質というか趣の異なる文章になっていると思うので、関心のない人にはなんの示唆も教訓もないものだということをあらかじめ断じていおきたい。

さて、ここからが本文。もうずいぶんむかしの話にはなるのだけれど、かつて学生服を着ていた頃は「衣替え」って、なんだかちょっとワクワクしたものだった。いままで半袖だったシャツが長袖に替わり、上からブレザーを着る。おろしたての冬服独特の匂いがして、服を着込んだ途端、より一層風が冷たく感じるようになる。もちろん、みんな冬服に着替えているので、登校時の朝の風景がほんの少し違って見えた。教室の空気もどこか新学期みたいなよそよそしい、気恥ずかしいような心持ちがした。この曲はそんな気持ちを思い起させてくれる。

そしてもっと個人的に言えば、ぼくはこの曲を聴くと、とある郊外の街を思い出す。時は1990年代半ばで、ぼくは20代の半ば。駅にはロータリーがあってそこを抜けると居酒屋や不動産屋や学習塾があって賑やかだ。ロータリーを抜けると大規模スーパーやOPAがあり、さらにそこからもう少し行くと大きな国道に出る。そのあたりまで来るとあたりにはマンションや住宅地がひろがり、国道沿いには自動車のリース会社や個人でやっている酒屋さんや理容店がならぶ。国道からさらに一本路地を入ると小規模農家の営む小さな田んぼや畑なんかがあって、駅前の喧騒が嘘のように静かで見上げると大きな月が見えたりもする。

当時ぼくはこの「街」にとある用事があって何度か通うことになった。そうして季節を問わず、昼夜を問わず、「街」のそこここを歩いた。でもぼくがこの曲を聴いて思い出すのは、きまって秋の夜なのである。春の朝でも、夏の夕暮れでもなく、それはぜったいに秋の夜なのだ。駅から目的地へと向かう道中、そのOPAのあたりを歩いている秋深い夜の風景。それも6時だか7時だか、それほど深い時間ではない。涼しくなり始めた風が心地よく、遠くの方で喧騒が微かに聴こえる静かで深い夜の中を、僕は一人で歩いている。そのときも、おろしたての長袖のシャツを着ていた。そのときの、すこし背筋がピンと伸びたような気持ち、何度か来てはいるがまだ勝手はよくはわかっていない「街」を、真新しい服を着てただ一人で歩いているときの、なにか新しいことが始まりそうな予感めいたふわふわした開放感が、この曲を聴いているうちに、まるでじかに触れられるかのようにありありと思い浮かぶのである。

この曲が発表されたのは2014年だから、実際にぼくが「街」を歩いていたのはそれよりずっと前である。つまり当然のこととして当時聞いていた思い出の曲というわけでもないし、時代背景もなにも、この曲と「街」の記憶には何の因果関係も見いだせない。それでもぼくはこの曲を聴くたびにその「街」の風景を、秋の夜の一人歩きのことを、それこそ風の匂いや、車の過ぎ去っていく音やクラクション、遠くで聞こえる若者たちの甲高い声や、闇に光る自動販売機の明かりやマンションの明かり、抱えた荷物が食い込む肩の痛みまで思い出すことになる。
新しい街、新しい服、新しい風。中身は何も変わっていないのに、自分がなにか違う別の人物へと生まれ変わっていくような痛快で心地よい感動が、暗闇を突如照らし出すまぶしい光のように、あざやかにぼくの心に浮かび上がるのだった。「衣替え」には、そんな魔法のような特殊効果があるように思う。流行のファッションとやらにはあまり関心はないのだけれど、今年はなにやら新しい冬服が、なんだかちょっと欲しくなってしまった。

ENJOY KYOTO Issue12 is out

ENJOY KYOTO Issue12が配布されています。今号は冨田工藝さんに取材させていただきました。仏像やお位牌を作られる仏師、位牌師というお仕事はあまりふだんお近づきになることはありませんが、いろいろ興味深いお話を伺えました。

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いろんな話の中で、とりわけ感銘を受けたのは「愛着」ということについてでした。東日本大震災のあと冨田さんは被災地である気仙沼石巻、京都や東京、ニューヨークなどいろんな街の人にお地蔵さんを彫ってもらい、それを東松島のお寺にお納めするというプロジェクトをボランティアで立ち上げます。そこで皆さんはじめて彫刻刀を持ったような方もいるのですが、顔を彫り進めるうちに、みんなに同じ彫りかたを教えているのにみんなお顔が違ってくる。睦海さんは「その違っているお顔は、あなた方が普段よく見ているお顔なんです」と言います。夫か妻か、親か子どもか、友人か恋人か、あるいは自分自身か。いずれにせよ、たぶんもっとも大事に思い、もっともよく見つめている顔が、そのお地蔵さんに投影されるのだというんです。そこに「愛着」があるのだと。

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そして。そのわざわざ愛着のわいたお地蔵さんを手放してもらい、お寺に納めていただく。そこに意味があるのだそうです。愛着のないお地蔵さんはただの木の塊です。木の塊を納めてもそこにはなんの意味もありません。よく言う「気持ちを込める」というのは、この愛着のことで、おそらく運慶や快慶はじめすべての仏師さんも、この「愛着」のこもった仏様をお寺に納めているのだろうと推測されます。そして、すべての宗教心の出発点こそがこの「愛着」なんだと睦海さんは話してくれました。

ちょうどこの夏に叔父が亡くなったこともあって、死について、あるいは祈るということについてあらためて考えました。霊やあの世を信じないぼくであっても、ご遺体に、お骨に、遺影に、仏壇に。自然に手を合わせこうべを垂れていました。その理由が「愛着」という睦海さんの言葉で、ぜんぶ理解できたような気がしています。

フィンランドからの留学生が描く「日本人論」

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フィンランドから京都精華大学に留学で来ていたKiiaが一週間後に帰国するということで、彼女の日本での生活とそれを通じて彼女が日本を理解しようとしたプロセスを映像や写真、絵画など含むインスタレーションで表現した個展「日本人論」に行ってきました。
ここに乗せた写真はフリースタイルな茶道や書の作品が多いのですが、全体としてはトラディショナルな日本をイメージしたものはむしろ少なく、モダンでポップな雰囲気のもの、といってもいわゆるKawaiiとかガーリーな感じというよりはモノトーンのものが多く、若さや日常性、さらには日本に対する批評性も感じられ、それこそ精華大学の日本人学生が作ったと言われてもなんら疑問に思わないような内容になっていたのがとくに強く印象に残りました。
じつはKiiaとは半年くらい前にENJOY KYOTOの事務所でいちどお会いしていました。そのころに比べて日本語がすごく上手になっていて驚いたのですが、昨日はKiiaを事務所に連れてきてくれた平居紗季さんも交えていろいろお話しできて、とても楽しかったです。


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どうしても外国から本やニュースで見る日本はトラディショナルなイメージが先行しがちだと思うので、こういう若い作家さんが日本で活動してまた本国に帰ることで、いまのリアルな日本やモダンな京都のカルチャーや空気を伝えて行ってくれると、またひとつ理解や関心が深まっていっておもしろいことが生まれるんじゃないかなと感じました。



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かなりフリースタイルなお茶席。卵は誕生と変身のシンボルなんだとか。


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気高き方の徳が長く伝わること。京都の山と川のイメージなのかも。ここにも卵。


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地べたに敷くお布団は日本の生活様式ですよね。下宿生活そのままここに持ち込む意図があるんでしょう。



ぼくは以前より「グローバルというのは全世界が共通の価値観でひとつになることではなく、互いのローカルを認め合いながら、ローカルがローカルのままで別のローカルとつながることだ」と言ってきました。そして、だからこそことさら異国の人との違いを強調するのではなく、表面的な差異のその向こうにある共通点をさがしながら、互いの文化をリスペクトしあえる関係を作っていきたいと考えてきました。Kiiaの個展からは、またひとつそのヒントをもらったようにも思いました。やっぱり異文化と交流し、価値を共有していくうえでのポイントは「日常性」の中にこそ多くあるのだなということ。そしてそれは、ENJOY KYOTOを作るうえで流れている自分の方向性にも通じる点でもあるとぼくは思っています。

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ぼくが紗季さんを、紗季さんがKiiaを、Kiiaがぼくをパチリ!