ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

インフルエンザで倒れてた1週間のこと

おつかれさまです、インフルエンザでじつに1週間まるごと死んでおりました松島です。多方面にわたって多大かつ長期にわたるご迷惑をおかけいたしましたことを、ここで心よりお詫び申し上げたいと思います。で、せっかくなのでここに備忘録というか、今回の病状や経緯などを自分なりのメモとして置いておこうと思います。

まず14日の日曜夜から40度近い高熱ともうほんとに何も考えられなくなるくらい激しい頭痛にまる4日間襲われました。とくに高熱と頭痛のために頭がグルングルン回ってうなされ続けて眠れず(ずっと連絡しなきゃいけない人へのメールやプレゼンを控えていた仕事の企画書を追われながら妄想の中で書いている状態でした)、ほぼ24時間ベッドで横になっているにもかかわらず頭痛でのたうちまわって眠りに逃げることすら許されないというのは、なかなかの地獄でした。

またほとんど食べられないのでけっこう痩せましたし(うどんだけはすこしだけ食べてました。うどん最強!)、タミフルの副作用で吐くし(「タミフルが効かなくて」と「ポケベルが鳴らなくて」は似てるYoネ!とかそういうしょうもないギャグを言う機会もなく)、あらゆる関節は痛いし、喉も痛くて咳が出るいっぽうで声は出ない。見たことのないような大きな痰に血が混じって出てくるし、もとから副鼻腔炎なので鼻水は出っ放し。盛りの中学生かというくらいのハイペースでティシュが消費されていきました。とにかくもう下痢以外のすべての症状がいっぺんに来ている状況でした。ああ、これはふつうに年寄り死ぬな、と思いながらポカリでしのぐ日々でございました。

19日の金曜になってようやく熱が収まり始めたので、すこし楽にはなったのですが、激しい頭痛と咳は収まらず、眠れないのは相変わらずで、このしんどくて頭も痛くて眠りに逃げたいし、眠って体を回復させたいのに眠ることさえできない、というのは本当につらかったです。横になると咳が出るし鼻が苦しくなって頭もよけいに痛くなるので、夜中に何度も起き出しては約2時間ごとに深夜にリビングでダウンジャケット着たままたた上を向いて座っているというのは、ほんとうに絶望的というかもういっそ楽になりたいとさえちょっと真剣に思いましたね。結局まともな生活にもどったのがほんの昨日くらいからでした。その間にまず長男が倒れ、続いて奥さんにまで感染するというリアル野戦病院状態、しかもそんなウイルスまみれの家に年寄りを手伝いに来させるわけにもいかず、家族みんなに死相がでているなか、ひとりどこ吹く風で気丈にも忍たま乱太郎仮面ライダーゴーストの元気な歌声を、インフル渦で沈む家庭に響かせ続けた3歳次男に、個人的には国民栄誉賞を差し上げたい気持ちでいまはいっぱいです。

最後に少しマジメな話をすると、今回はいろいろと考えました。簡単にいうとフリーランスのリスクマネジメントとかそういうありがちな話です。
今回ちょうどENJOY KYOTOの原稿訂正から最終チェックにかかるタイミングだったのですが、インフルはおおむね2,3日で熱が下がると一般的に言われているので、ぼくの思惑としては水曜日に回復できればなんとか間に合うという算段でした。とにかく月曜と火曜日は電話を取ることも、起き上がることすらできない状況だったので水曜が勝負だ、と。これが甘かった。

水曜日になっても状況はまったく改善せず、まだまともに頭を働かせて指示を出したり判断することができる状況ではなかった。そこではじめてヘルプをかけようと判断したのですが、逆にそれを伝える前に他のスタッフのほうから「替わります」との連絡が来たのでこれに助けられました。ひとつひとつを詳細に説明していくだけの余裕はまだなかったので、わかる範囲で人が直接入ってバックアップしてもらえるならと、もう本当に余裕がなかったので任せきりにすることにしました。これを本当はもうすこし早くすべきだったと反省しています。

楽観的な独断による甘い見通しというのがチームでの仕事では一番やってはいけないこと。そのことはかつてデザイン会社で役員をやってチームを率いてきた立場からよくわかっていたつもりだったのですが、独立して3年が経ち、ある意味個人で働くことに慣れてしまったからかすっかり忘れてしまっていました。それと、もともと「とにかく仕事を途中で放り出すことだけはしたくない」という個人的な性質も重なることで、悪意がなかったことが結果的にはより大きな迷惑をかけてしまう、というこれまたありがちな結果を引き起こすことになってしまいました。

しかもご迷惑はチームスタッフだけではなく、クライアントや納品先、プレゼン用の作業を控えていたパートナーなどにもかなり心配や実害あるご迷惑をかけてしまったのですが、ここで思うのは、皆さんが寛大に対応していただけたことが印象的でした。ぼくの担当する作業をすべて肩代わりしてくれたENJOY KYOTOチームスタッフみんなをはじめ、途中で仕事から離れてしまったにもかかわらず身体の心配をいただいた宝酒造のFさん、Deco Japanの菅井さん、豊島さん、それからふれあい館のDさん、またプレゼンを控えた状況で限られた対応しかできないことに理解を示し身体の心配までいただいた印刷会社のディレクターさんやウェブ制作会社の社長さんなどなど、今迄では考えられない寛大な対応に本当に助けられました。

先にも書いたようにかつて大阪のデザイン会社でチームを率いていたころは、けっこうもっと厳しかったというか、ちょっと別のものが対応しますと伝えるとあからさまな懸念を示され、なかには「それは困る!」と臆面もなく電話口で怒鳴る方までいました。まあ会社を担うチーフとしていまより直面していたプレッシャーそのものが大きかったのもあるにはあると思いますが、やはり時代が変わったんだなあという風にぼくには感じられました。

だからこそ、もっといろんなことを、いろんな人に委ねた方がいい。そうあらためて思いました。自分でできることはぜんぶ自分一人でやらなければとつい思いがちなのですが、ひとつのプロジェクトになるべくたくさんの「スペシャルサンクス」を書きこむ余地を与えた方がいい、そう思いました。実際、今回はあらためて自分の仕事というのは、ほんとうにたくさんのスペシャルサンクスでできているんだなあと実感する機会になりました。映画なんかと同じで、キャストやスタッフの少ないチームではどうしたってインディーズのこじんまりした映画しか作れません(それにはそれなりの良さももちろんあります)。いっぽうキャストやスタッフやその他名もなきエキストラ含めて、やたらたくさんの名前が連なっている映画はきまって大作です。たとえ主演・脚本・監督がすべて自分であるこのわが人生とやらであったとしても、それをより大きなプロジェクトにしたいのなら、やはりエンドロールにたくさんの人名が連なるようにしておいた方がいいということ。これが今回のインフルエンザ渦からぼくが学んだ教訓ですね。