ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

ブログ開始から一年たってみて

このブログを書き始めたのがちょうど一年前。15年近く勤めた会社を辞め、フリーランスのライターになることをここで明らかにして、それをまあブログの始まりとしました。不安もありましたが仕事はなんとかかんとかやれています(その分、あまりブログ記事が書けなくて月二回のメルマガみたいになってますが)。企画を立ち上げる、その「まえがき」的な思考の実験場にという当初のブログの趣旨も現状あまり機能していませんね。トホホ。

で、ともかくフリーランスとして一年やってみて、どうか。まず生活スタイルそのものは大きく変わったし、可処分所得は減っていますが可処分時間が増えたことで家事や生まれたばかりの赤ん坊にどっぷり関わって人間てこんな生き物なんかーとあらためて学んだり、平日昼間に街を散歩したり、子どもと過ごす時間が増えたりしたので、暮らし向きとしてはむしろ人間的と言うか豊かになった印象ですし、通勤費や後輩に一杯おごるみたいなお金を使わない分、支出も減っているので、まあトントンといったところですかね。自分としては子どもと関われたことがいちばん大きかったです。それは前にも書いたかもですが、今後仕事をしていくうえでとても重要なことを学んだと思いますし、サラリーマンの方も半年くらい主夫とかやってみたらいいのにと思いました。

フリーになってからの仕事内容そのものはというと、辞める前ととくに変わりなくという感じでしたね。おかげさまで本業であるコピーライティングの仕事や企業のSP企画の企画書作業などがけっこう忙しくあったし、はじめはペースもつかめずならし運転で様子を見ながらみたいなところもあって、おっかなびっくりだったのですが、最初っからまあそれなりに引き合いもあって、それにいきなり新業態に飛び込むよりはこれまでのスキルをそのまま活かせる仕事が確実にあるのは本当に助かったなあと思います。ライターという業態で、いまやなかなかそんなにうまくいくことはないよと周囲からよく言われるので、やはりラッキーだったんだなあと感謝しています。皆さん本当にこれからもどーぞよろしくです。

ただ反面、当初思ったようにはチャレンジングなことは、あまりというかぜんぜんできてなかったなーというのが正直な感想です。まあもうちょっとやはり新しい分野に取り組んだ方が良かったなという感じですね。ここは大いに反省です。自分のホームページを立ち上げていろんな企画を発信していくとかもやってみたかったんですが。ただ、まあなんといっても子どももいますし、しかも独立後に二人目が産まれたりもしてるわけなんで、あんまり採算度外視のチャレンジに軸足を置きすぎることはできないなあという事情も、まああるにはあったわけなんですね、はい。というのは言い訳ですね。今後はがんばります。そこは今後のはっきりした課題ですのでね。

さて、ここ一年でよく聞いた話として印象に残っているのは「中間的な人たち」が食えなくなっているというものです。たとえば村上春樹は一週間で100万部とか売れるけど「そこそこの作家がそこそこ売ってそこそこ食ってく」ということが難しくなってる。で、それは出版だけでなく、デザインやwebやカメラマン、そしてそしてもちろんライターなんかも含めていろんな業界で起きている印象がありますし、実際いろんな業界から聞こえてきます。ギャラがすごく高い「大先生」か、タダ同然で受ける「作業者」かに二極化していっているっていうんですね。実際どうか?まあ、そうかもしれない。だから一時期「有名人になること」みたいなことがツイッターで語られていたんでしょうね。

で、たぶんそうなっている原因のひとつでもあると思うんですけど、今後はやっぱり業界やら世間の流れから考えると、いわゆる「情報」というのはどんどん無料化されていくと思うんです。いい悪いは別として「食べログ」みたいなところに代表されるように一般の人がレビュー書いて、それが「情報」として無料で提供されるかたちが、ある程度メディアの主流になっていくと。どんどんプロが不要になりアマチュアの生の声のほうがええやんかいさーという流れが加速していく。と、まあここまではいまや当然のことでこの業界の人ならだれでも知ってる自明のこと。

ただ、そうゆうSNS的なコミュニケーションってやっぱり床屋談義の域を出ないし、じつは不要な情報が多くなってるだけという側面も一方ではもあるにはあるんですよね。それはそれで流れとしては今後どんどん拡大していくだろうし、一概にそれがダメだとも思いません。むしろいいことも多いとは思うんです。ただ、そうやって情報の量は増えてもやっぱりほんとうに必要な情報に出会うことは難しいし、ノイズ(という言い方は語弊があるかもだけど)が増えた分、以前より必要な情報にアクセスしづらくなっている印象もあったりはするんですよね。ツイッターなんかも発信メディアでしかなくて、いまやあすこで情報交換とか情報共有とかましてや議論なんてだれもしようとは思わないですよね?みたいなことです。

で、ついでにもうひとつ。話はちょっと逸れるんですけど、たとえば文芸批評とかもう死にましたよね。批評が死んで小説にしても映画にしてもどうにも小粒になったなーという感じがちょっとあって、それと同じような流れなのかなと最近思うんです。いわゆる目利きというか「知の巨人」のような人がいなくなったなあと。それはもう古典なんかへの理解が失われていくことにもリンクしていて、もう50年もしたら上田秋成どころか夏目漱石でさえも、だれも正確に読み切れないようなそういう時代になるんじゃないかなあなんて思ったりします。ガイドがいない時代。「そんなの吉本隆明とか小林秀雄の批評をアーカイブしておけばいいじゃん」といえばそうかもですけど、ただ彼らはみな死んでいるので古典を通じた新しい時代の新しい言葉は発してくれないし、いずれ彼ら自身が古典になるわけですから。やはりその時代その時代に目利きはいてほしいよなと僕なんかは思うのですね。

本題に戻ると、先の「一般ユーザのレビューが情報メディアの主流になる」というのと「批評家・目利きの不在」という異なる二つの話は表裏一体というか、まあ同じ流れの話だと思っていて。で、まあ僕はどうにも意地っぱりなところがあるので、それならと、あえてそういうところに活路があったりするんじゃないかと思っているんです。たとえばホリエモンが新しいニュース批評メディアを作りたいみたいな話をしてたけど、そういうのもひとつだと思うんですね。オープンになって誰もが情報にアクセスできるようになったとして(それはさっきも言ったようにいいことなんです)。しかしその一方で、その評価は誰でもできるわけではない。むしろ一次情報がダダ漏れになったところで、その評価・選別は専門家でなくちゃできないという点については昔と変わらないわけですし、ダダ漏れのように一次情報の全文掲載となるとそれこそ内容によっては専門的知識がない人にはそもそも読解すら難しいわけです。

とすると、そこである程度の情報整理はやはり必要になると思うんです。翻訳者といってもいいかもしれない。要するにぼく自身は専門家でも目利きでもないし第一次情報の発信者でもないけど「この目利きの人が言ってる論点、これいま重要だと思うんですよー」というのを見つけ出してくる役割。「読む人」であり「書く人」です。いわゆる専門家の発する一次情報を単なる「情報」で終わらせないレビューや批評記事、読み物をきちんと書ける書き手(よい書き手はよい聞き手ありよい読み手でもあると思うので)っていうのは、やはり長い目で見れば希少価値ではないけど、むしろある程度需要が増えてくるんじゃないかなと、僕はそういう役割に向いてるんじゃないかなあと。そんな風に楽観的に(何の根拠もないですけど)思ったりしています。そしてそれは具体的にいうと「物語の復権」だと思っていて(まあこれ自体はあんまり新しい視点ではないわけですが)。論理より感性の時代なんていわれていますが、「いいね!」という感覚的なコミュニケーションや視覚に偏った情報がものすごいスピードで拡大していく中で、いずれふたたび「なぜ?」がきちんと問い直されることになるだろうと僕は思っているのです。個々によるきわめて個人的な体験とその感受性を普遍的な価値として共有させていく作業。そこをつなぐのはやはり「新しい物語」であり「新しい言葉」なんだろうと思います。だから焦らず、腐らず。「ああやっぱりライターさんなんだな」と言われる仕事を誠実にやっていこうと。新しい時代にふさわしい新しい物語の書き手になろう。まあ一年たってみて、あらためてそんな風に決意をした次第です。