ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

仏性について ~finalvent氏のエントリを読んで~

finalvent氏の本「考える生き方」を読んであらためて思考の方向性や眼差しの類似性と言いますか、それは人生の成り行きを含めて共通する部分が多く、その感想エントリを書こうと思っていたのですが、仕事や日々のあれこれでバタバタしているうちにかなわず、そうこうしているうちに以下のエントリを読み、ひさびさに自分の思考と重なる論考があったので自身のメモ的にサクッと軽めのエントリをおこしてみました。ので、解釈論等で違和を持つ人もいるかもですがご容赦を。とりわけ追記のなかの読者とのやりとりのなかでサラッと書かれている以下の部分に、グサリと突き刺さるものがありました。

 

 

finalventの日記「仏性」 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20130322/1363958764

「自分は自分の内面の苦というものを見つめている・感じている・対象化している、というのが迷いであり、対象化する限り、苦が続くということです。見つめている・感じているという主体に見えるものが、苦を支える原動力なのだということです。これが仏性ということでもっとも重要なことです。」

 

 

うーん、これはすごいな、と。マイッタ、マイッタ。自分なりの解釈でいうと「苦」は「あなた」が「苦」だと「思う」ことで「苦」で「あり続ける」ということ。「苦」を逃れるにあたってはまず「あなたという主体」を捨てる必要がある、と言っている。「主体」は「実存」であり、自身による過去の思考や未来への思いであり、すなわち「時間」ということだと。そこからさらにぼく自身の解釈をプラスすれば、逆にの言い方もできて、すなわち「死」は「主体=時間からの解放」でもあるということになる。へ?死なんと解放されへんのかいな、ってことではなくてね。では、とゆうことでハイデガーとの類似を言っている人もいましたが、ぼくはノルウェーの猟奇殺人の被害者追悼ミサで司祭が「彼の罪」ではなく「我らの罪を許したまえ」と言っていたことを思い出しました。いわゆる「苦」の対象であるはずの犯人を「我ら」とし、「(彼を含む)我らの罪を許したまえ」と祈ることで、苦の対象を相対化してしまう(=自分という主体をも相対化する)ということですかね。そうしてこの「怒り→哀しみ」を「許し→救い」へと変換していく「心的装置」こそが宗教の本質なのかな、なんてことを思ったりもしています。

自分は仏教についてもキリスト教についても、それから信仰とかについてもよくわかっていないのですけど、こういうある種の救いの構造のようなもの、智恵による感情(とくに「憎」「怒」「哀」)の克服のための装置としての宗教(哲学)については、よく考えることがあります。そうして40年間そうやって生きてきたなかで考え続けてきたある種の心象のようなものが、このエントリによって、またすこし結ばれたようなそんな気がしています。端的に言えば「許す」こと、ある種の感情を「手放す」ことによってかなりの部分「苦」から救われるという、生きている中で得た実感のようなものです。それはすなわち「自由」というものがめざしている姿であり、また元来そなえもっている本当の姿のようなものでもあると思うのです。もともと自分はそうゆう風に考える傾向にあったのですが、震災以降のメディアの映し出す風景を眺めているうちに、より強くそう思うようになりました。

たいへんな作業ではあるけれど、あらためてもういちど、「正法眼蔵」読破に取り組んでみようかな、などと思いました。