ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

キムくんのこと

こうゆうタイミングでこうゆうエントリもなんだなあとか思いつつ、いや、こうゆうタイミングだからこうゆうエントリでいってみようと思い立ち書くことにしました。

キムくんと名乗るその彼と出会ったのは、ぼくが22歳のころに映画学校でのことでした。高槻の出身で当時18歳。ひょろっと背が高く、どちらかというと老人がかけているような上側にだけ太い黒縁がついている辛気臭い眼鏡をかけていました。在日コリアン三世ではあるものの日本語しか話せず、ハングルが読めない朝鮮語が話せないどころか韓国に行ったことすらないと彼は笑っていました。

彼と出会って数日後、映画学校の研修で奈良の山奥に合宿みたいな、いわゆる林間学校みたいなのに行きました。まあ同じ釜の飯食って裸で風呂入ってなかよくやれよ、ということなんでしょう。ときは平成に入って数年がたったばかりの頃だったので、まだそういう昭和的なイベントがあったわけです。で、行った。その夜。夕飯なんか食って落ち着いたあたりで、テーブルの向かいにキムくんがいたので何気なく「じぶん、名前なんでネイティブ発音で名乗ってんの?」みたいなことをサラッと聞いてみたんですね。ずっと気になっていたことだったから。すると周囲が「さささ」と音を立てて引いていったんです。ほんとうに音が聞こえるような感じで「すー」と遠ざかった。空気が2℃くらい下がった気さえしました。あれは忘れられない体験でした。でも彼だけはぼくのほうをまっすぐ見て真剣に、でもぼそぼそとその理由を答えてくれました。

大方の謎がそうであるように、聞けばその理由は彼曰くはたいしたものではなく単に「じいさんがそうしていたから」といういささか拍子抜けする答えだったのですが、まあ実際にはそんなものなんだろう、とも思いました。そして彼としてもそれを「きん」とするとか、または日本人ぽい名前にあえて変える理由がとくに見あたらないと考えているからそのままにしているだけ、ということでした。なるほど。まあそりゃあそうだろう。ぼくだってロシアに住むことになったからって「なんとかスキー」とか「なんとかフィエフ」みたいな名前にしなければならない理由はないのだから。

で、彼はさらに続けて、じいさんは偉い人で商売で成功した。自分が小さいころはハイヤーで送り迎えがついていた。父はその財産を食いつぶしたダメな人だった。じいさんは成功できた日本に感謝していたが父は反日的なところがあった。周囲の影響もあったかもだし時代のせいもあるかもしれない、みたいな話もしてくれました。もうそのあたりで僕は彼のことが好きになっていたし、彼もぼくに関心を持っていたのがわかりました。ぼくらはそういう感じで自然に友人同士になりました。

のちに仲良くなってから、彼は外国人だということで差別されるのはいやだけども、逆に外国人だから特別扱いされることのほうがもっといやだった、とも語っていました。小学校の頃、彼は授業のあとに先生に呼び出され「なんかあったら先生にいいや」といわれなぜか鉛筆をもらった、そしてそれがすごくいやだった、と行っていました。たぶん先生は理解者としてあるべきだと考えて好意でしてくれてたのだろうと思うのだけど、彼にはそうは取れなかった。素直じゃないぜキムくん、とも思うけど、そうはなれない彼の気持ちもよくわかりました。なにせ大人のやることがいちいち気に入らない年頃でもあるわけだし、それは日本人だろうと何人だろうと、思春期というのはそういう時代なのだから。

後になって思ったのは、その合宿のとき、ぼくがなんの留保も遠慮もなく、オブラートに包んだり、なにかをごまかしたりせず、率直かつ直球で尋ねたことが、彼には新鮮だったのかもしれない。し、それがうれしかったのかもしれない。ぼくらはその一件以来、毎日のように喫茶店で待ち合わせ、コーヒー一杯で映画の話や小説の話、彼女の話や将来の話をしました。でもふたりとも話しをするだけで、なにひとつ具体的な行動を伴うことはできませんでした。一応ぼくは別の友人たちと自主映画を2本つくったんですけど、彼のほうは一本の脚本も書くこともありませんでした。「おまえがホン書いたらオレがそれ撮るから書けよ」みたいなことも持ちかけましたが、彼は乗り気ではありませんでした。ついにある時期から「なぜ書かないのか?」が彼との話の大きなテーマになっていきました。また彼と会うたびにその第一声が「ホン書いてるか?」になっていました。しかしいつも彼からは前向きな答えは帰ってはくることはありませんでした。

キムくんは、小津安二郎の「お早う」と林海象の「夢見るように眠りたい」とゴダールの「勝手に逃げろ、人生」となぜか「不思議惑星キン・ザ・ザ」が好きといういささか変わった趣味の持ち主ではあったけれど、とりたてて際立ったところのない平凡な映画好きの少年で、性格もおだやだかでいわゆる日本人よりも日本人的でした。ただ、いまになって振り返って思うのは、彼自身内面では悩んでいたのかもしれない、ということです。

ひとつだけ。彼は自身の出自をテーマにすることをかたくなに拒んでいました。しかし小津の映画が好きで性格も僕以上に日本的な彼であっても、家に帰れば彼は在日コリアンでありそうしたコミュニティにおける影響下にあることは間違いないはずです。たとえばこのぼくが、自身のアイデンティティを作品を通じて表現した場合どこかに日本文化の影響が無意識に現れるだろう、そのことと同じように彼が自身のアイデンティティを作品を通じて模索する段階でそこに突き当たるのは避けられないはずなのです。しかし若い彼はそこを避けたかった。徹底してそこを排除しようとした。当時の彼が一本の脚本も書くことができなかったのには、もしかしたらそういう背景があったのではないかと、このあいだふと思ったのです。

さて、べつにこのエントリにはオチはありません。テーマや教訓、言いたいことやメッセージ性もありません。ただ彼はどうしているだろうな、とふと思うことがあります。10年くらい前に会ったのを最後に彼とは音信不通になってしまったのですが、あの幾度となく語り合った喫茶店や、みなみ会館のレイトショーなんかに行けば、ふらっと彼が現れそうな気もしています。そうして、たぶんその時もきっとぼくの彼への第一声は「脚本書いとるか?」なんだろうなと思っています。