ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

時代劇にまつわる随想

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いま配布中のENJOY KYOTO Issue 13の巻頭特集は時代劇です。かつて京都が「映画の都」とか「日本のハリウッド」と呼ばれていた時代からはじまり、戦後GHQが発令した時代劇禁止令による時代劇暗黒の時代、その後に訪れた黒澤明羅生門」や溝口健二雨月物語」など京都の撮影所でつくられた映画が世界を席巻する時代を経て、昨今の没落へと至る経緯を駆け足で紹介しています。また「5万回斬られた男」として有名になり「ラストサムライ」でトム・クルーズとも共演された福本清三さんや、殺陣師の菅原俊夫さん、衣装の松田孝さん、美術監督の松宮敏之さんなどいま現役の職人たちへのインタビュー、そして最後には時代劇を世界へ発信する取組として「Kyoto Filmmakers Lab」や「京都ヒストリカ国際映画祭」までを網羅しています。

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この記事を書くにあたり、ぼくとしてはインタビューによる当事者への取材以外にも、京都の時代劇のことをあらためて調べてみました。京都の映画や時代劇に関するさまざまな本を読んだり、関連する界隈を自分の足で歩いてみたり、京都太秦映画村の資料室(ここは過去の映画のスチールやポスター、ビデオなどが膨大にあって一日居ても飽きない!)へ行ったりしてるうち、自分の家系というか両親の生家があった場所が、いずれも時代劇黄金期の京都の映画と何かしらの縁があったんだなあとわかって驚きました。

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日本初の映画スター・尾上松之助の墓は等持院にあり、それは現在、立命館大学のキャンパスの中にあります。クルマで立命館大学正門のゲートで警備員さんに「墓参りです」というとゲートを開けてくれてパスをくれる。そのままクルマでキャンパス内を奥まで走らせるとそこに「等持院墓地」があります。じつはうちの家の墓はその松之助の墓のすぐ脇にあって、小さいころから墓参りの時いつも通るたびに父が「これは有名な役者の墓なんやぞ」と言っていました。ぼくは子どものころはそんな古い役者のことなどよくわからないので「ふーん」としか思っていなかったのですが。ところがちょうどこの時代劇の仕事をしているさなか、叔父が亡くなり9月の納骨の際にひさしぶりにこの墓地にたまたま行く機会がありました。もしかしたらこのタイミングで叔父がぼくを連れてきたのかもしれません。ちなみに等持院境内には日本映画の父と呼ばれ尾上松之助を見出し多くの映画を作った日本で最初の映画監督・牧野省三の像も建てられています。

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そしてうちの父の実家でありぼくの生家でもある二条駅付近もまた日本映画発祥の地として知られ、二条城の南西、現在の中京中学校の南東角には京都で最初に作られた映画撮影所「二条城撮影所」跡としての碑が建てられています。ここで牧野省三尾上松之助とともに「忠臣蔵」を撮影したのですが、じつはこの1926年(大正15年/昭和元年)に撮影された映画のフィルムの完全版が最近発見され(尾上松之助の「忠臣蔵」、幻のフィルムを京都で発見:朝日新聞デジタル)、京都国際映画祭で上映されたのを母といっしょに見に行きました。これもまたタイミングというか「この機会にこれも観ておけ」と誰かに言われているかのような気がしました。

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また、うちの母親は下鴨出身で子どもの頃よく下鴨神社の脇にあった下加茂撮影所を見に行ったのだそうです。その際、近所に住んでいた役者さんで大部屋俳優の草分けとして知られる名脇役の汐路章さんによく肩ぐるまして撮影を見せてもらったのだと言っていました。汐路章さんといえば今回のENJOY KYOTOの取材で斬られ役の福本清三さんからお話を伺ったときにも名前が出て「おまえー!そこのけー!わしが映らんやないかー!って、よう怒られました。怖い先輩でした」と仰っていました。ある世代の方には映画「蒲田行進曲」のヤスのモデルと言ったほうがわかりよいかもしれませんね。そんな強面の汐路章さんは近所ではやさしいおじさんだったようです。ただ母いわく「役づくりなのか、ときどき黙っていることがあって、そのときはやっぱりすごく怖かった」と言っていました。

そして、たまたま現在ぼくが住んでいる界隈も、どうやら牧野省三尾上松之助が活躍した時代に映画に重要な土地だったとして多くの資料で目にすることができる場所でした。こうしてみると、かつて20年前に自分が映画を志して太秦の撮影所に出入りしてたことが、どうやら単なる偶然ではなかったのかもしれないと考えるようになりました。ぼくはおそらく運命の糸に導かれるようにして映画の世界へと引き込まれていったのだろうということです。結局のところぼくは映画人になるという夢はかなわなかったわけですけれど、こうしてずいぶん遠回りをしながらも時代劇や撮影所について書くことになるというのは、ほんとに数奇な運命を辿ってたどり着いた兄弟物語のような、なんとも不可思議なつながりを感じています。

ともあれ、このENJOY KYOTOの取材からはじまって、個人的な等持院墓地への墓参、それからENJOY KYOTO関連で「太秦江戸酒場 〜琳派の秋〜|UZUMASA EDO SAKABA」という太秦映画村で開催されたイベントや「京都ヒストリカ国際映画祭」への参加にいたるまで、夏の終わりから11月にかけて時代劇というものについてあらためて考える機会になりました。
お話を伺ったなかのひとり、美術監督である松宮敏之さんは「CGではなくセットで実際に作って撮影をすると、足元のぬかるみや風、本物の木の匂いを感じながら役者は演技をすることになる。それは確実に演技や絵に影響を与える」と言い、もっといえば「匂いも映るんだ」という話をされていました。かつて黒澤明は撮影前のセットに早くやってきて箪笥のなかに衣服が入っていないのを見つけ、着物を入れろと怒鳴ったというエピソードがありますが、そういう「見えないモノだって映る」という映画的真理のようなものは、おそらくまだここには残っているんだと思います。そしてぼくはそれを支持しています。
また床山の大村弘二さんはリアリズムと映画的リアリズムについて語ります。「いまはリアルにということでメイクなんかもナチュラルにしていこうといわれます。でもじつは髷を結うということはポニーテールをイメージするとわかるのですが、髪は上へと引っ張られるんです。すると目は自然に少し吊り上がってきます。つまり目張りを入れたアイメイクというのは古めかしい大仰なメイクなんかじゃなくて、むしろリアルな表現だったんですよ」と言います。

あと、映画監督の兼崎涼介さんが言っていた「間口の広い表現」ということについてもここしばらく考えています。なんとなくクリエイターは、いつの間にかマーケッターやコンサルの下請けになってしまったようなところがありました。でもそれもう古くないですか?という空気が、いまちょっとずつ流れて来ている気がするんです。ターゲットと表現技法と流通経路をマーケが決めてそれに沿ってモノづくりやってるうちに、いつしかコンテンツは間口の狭いものばかりになって、ニッチといえば聞こえはいいけど、そもそもの市場が狭いうえなかなか大きく育っていかないので、ほとんどのケースでクリエイターは食べていけなくなっている。というか、もうそろそろユーザーのほうもそういうマーケティングデータや市場ニーズとやらに基づいてかっちりコントロールされた、こじんまりとしたコンテンツに飽きてきたよね?というのをなんとなく感じているのです。今年の音博のときに八代亜紀さんがバーッと出てきて「雨の慕情」をあの振付をしながら会場の全員で歌ったときの一体感のような、みんなが知ってて瞬時に共有できる超ポピュラーコンテンツをそろそろ見たいよね、という期待感みたいなものがあるんじゃないかなと思うんですよね。

だからこそ、たとえば。京都の撮影所の職人さんをフル動員して、美術から大道具からものすごい本気でお金かけて、CG一切使わずオールオープンセットで、本格時代劇を作ったら、むしろしっかりと世界で勝負できる一大スペクタクルエンターテインメント映画が作れるんじゃないかなあ、と思うんです。なんというかぼくはいま、「じつはコンピューターでこんなことまでできるんです」じゃなくて、たとえば「人の力だけで巨大ピラミッドをつくる」みたいな、そういうものづくりのほうが逆に求められていて、観る人を驚かせたり感動させたりできるんじゃないかって、そんな風に思っているんです。