ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

ひなやさんの衣料品再生プロジェクト「Re: リコロン」について

「小学6年生のかっこう」というのが、ぼくのファッションセンスに対するぼく自身の批評です。ジーパンにチェックのシャツとスニーカー。上に着るものがプレーンなトレーナーだったりカーディガンだったりベストだったりするだけでとくに代わり映えせず、ブランドもとくにないようなもの。時計もしない。ネックレスもピアスもブレスレットもミサンガもなーんにもつけない。つけてるのは結婚指輪だけ。帽子もなし。眼鏡もふつうの没個性な黒縁。そんな調子でとにかく40年やってきて、最近になってちょっとこれはさすがにダメなんじゃないかなと、いまさらながら思うようになりました。

なぜかというと、変な譬えかもしれないんですけど、春には春の、秋には秋の野菜があるように、本来、服にも「旬」があるんじゃないかなと思ったんです。ふと。それは単に「流行」ということではなく、その服がその人に着てもらうのにいちばんふさわしい時期みたいなものです。だから季節や時代、職種や性格、それから体形や年齢やTPOやにあわせて服をきちんと変えるというのは、それなりにちゃんと意味があることだということにあらためてというか、頭でではなくきちんと感覚として理解できたように思ったのでした。なんというか、これまでのぼくのファッションへの嗜好は、単に自分にとっておいしいと思うものだけを、旬とか味付けとか食べ合わせとか無視して、年中飽きもせず食べ続けてきたようなもんだったんだなあ、と気付かされたわけなんです。

昨夜、京都のテキスタイルメーカー「ひなや」さん(株式会社ひなや)が始められた「Re: リコロン(Re: (リコロン) 衣料品再生プロジェクト | Facebook)」というプロジェクトの内覧会にお伺いしてきて、まあそこで自分がもっとも疎いファッションに関する分野の方々とお話したことがきっかけで、そんなことを考えるようになったわけです。「Re: リコロン」というのはアトリエに持ち込まれた不要になった服を、「メンバー」になった人に無料で持ち帰ってもらったり、汚れてしまった古着を草木染にして新たな価値を付加するなど、衣料品のリユース・リメイクを目的に人たちが集うコミュニティなんですけど、要はこれって、着る人じゃなく着られる服の方の目線から生活をとらえ直すってことだよなーとぼくは思ったんです。ぼくにとってこの服が好きか嫌いかということはもちろんあるにせよ、むしろそれよりこの服にとっていまの自分がふさわしいかどうかを見きわめる、というような感じ。ぼくが服を選ぶのではなく、服の方がぼくを選ぶ。この視点の転換によって気づくことがたくさんありました。

たとえばぼくみたいにファッションに疎い人は、自分がほしい服を買うと同じような服ばかり買ってしまい逆に個性がなくなっていくし、時代の感覚や年相応みたいなものが失われてしまう。ぼくはその服を求めてるけど服の方はぼくを求めていないというよな、ミスマッチが起こったりする。むしろ服を「非所有する」というような新しい感覚を意識づけることで、逆にその服の旬をとらえられるような気が、なんとなくしたんですよ。これは新しいなあと。自分が好きなブランドや好きなスタイルの服を買うのではなく、服の側からの視点で自分を見てみて自分に合った服をチョイスする。あるいはリメイクする。そのほうが、かえってリアルな自分の「ファッション」というものが見つかるかもしれない。考えてみればそもそも京都は「着だおれ」とかいって、繊維やら染やら織やらが盛んな街ですし、ひなやの伊豆蔵直人さんも仰ってましたけど、ファッションというのはコミュニケーションの入り口になりやすいという特性もあると思うんですよね。新しい和装の可能性に挑戦する人々なんかはもちろん、「Re : リコロン」みたいなユニークな取り組みも含めた「ENJOY KYOTOファッション特集号」みたいなのがあったらいいだろうなあ。