手で書く、手で描く。
ちょっと前に糸井重里さんとジブリの鈴木敏夫さんの手書きファックスでのやりとりが話題になってました。手書き文字で書くと言葉の表情まで伝わるから、たとえば「再考!」という鈴木さんのダメだしが決して一方的なものではないことが、その自筆の表情によってしっかり伝わります。それゆえ、ふたりのファックスによる往復書簡が、どんどんそれ自体ひとつの魅力的なドラマというか、コンテンツのようになっていく不思議なおもしろさがありました。
糸井重里と鈴木敏夫の「生きろ。」を巡る往復書簡 | note|tacrow.com
ぼくはいわゆる「うるさ方」と呼ばれるようなわりと古い世代のクリエータの方々から基本を教わったおそらくは最後の世代に近いと思うのですが、その名残りかいまでもデザイナーさんに構成やレイアウトイメージを伝えるときに、拙い絵を描いてコミュニケーションをしています。ぼくはもうほんとうに浜田雅功画伯に負けず劣らすと言っていいくらい、もうこれが見事に絵心がないのですが、この手描きサムネイルだけはそれなりに描けるようになりました。これこそ、まさに修行のたまものだと思います。
これがぼくが描いた手描きサムネイル。
こちらができあがり。
いまなんかだと、パワーポイントでサクッとラフなんか誰でも作れちゃうし、そのほうがいいっていう場合もあるんだろうと思います。会議なんかでも最近だとけっこうみなさんノートパソコンやタブレットに「タカタカタカ」とメモをしていく。ノートはノートでも紙のノートにメモしているのはぼくくらい、ということもしばしばです。
いやね、決して「昔はよかった」といいたいわけではなく「オレ様が正しい」ということでもなく。それはどっちもアリなんです。ただ、いまのところぼくに関してはこの会議のメモやサムネイルについては「手で書く、手で描く」のほうにまだまだ軍配があがるんです。その理由についてはフィジカルを刺激しているかどうか、ということがあるんだと思っています。
手と頭が回路のようなものでつながっていく感覚が、ものづくりをやっている人には誰でもあるんじゃないでしょうか?頭に思い描いたイメージが勝手に手を動かしていく、あるいはその逆にからだに刻み込まれたフォームがフィードバックして思考を促すというような感覚です。この感覚をなんどか経験していくと、すこしずつ意識的にその回路をつなげられるようになってきます。達人と呼ばれる人はその回路のつなげ方が上手だったりもするんだと思うんですね。
アナログが大事だなーと思うのは、単なる郷愁ではなくて、この「回路がつながる感覚」をつかむのにアナログなやりかたのほうが近道だという実感があるからなんです。「音楽」はいまや情報コンテンツとしてとらえられていますが、たとえばかつてはレコードに針を落として25分弱でソファから立ち上がっていってひっくり返してまた針を落とすというめんどくさい作業が入ることで「体験」としてからだに刻まれていたと思うのですが、こういうフィジカルな動作が加わることで「耳からの情報と思考」が回路でつながり、音楽はいまより深く刻み込まれていたように思います。
すべての「所作」というのはそういう風にして生み出されていくのではないかなと思います。レコードに限らず、カメラで写真を撮る、やかんで湯を沸かしお茶を淹れる、マッチでストーブに火を入れるなどなど、ほんの数年前まであったフィジカルな「動作」は、そのほとんどがボタンひとつになってしまい、「所作」とよばれるようなものは生活からどんどん失われてしまったように感じます。だからぼくはときどきレコードをかけたり急須でお茶を淹れたりします。めんどうに感じがちなひとつひとつの生活の所作は、わりに人生をいきいきさせてくれるように感じるし、子どもにとっても小さいころの生活の記憶がより深く刻まれることになるだろうと思うからです。
そういえば最近は若い人だけでなく、所作のお美しいご老人をお見かけることが少なくなった気がするなあ。