「四十才は二度目のハタチ。」
「四十才は二度目のハタチ。」という真木準の名コピーがありました。人間、ハタチで成人になるということは、四十才は大人になって二十年、つまり「オトナハタチ」なわけです。
「多崎つくる」が36才にしてちょうど半分の18才の出来事を清算するためにかつての友人に会う巡礼の旅に出たように。「あまちゃん」が80年代・90年代を問い直すように展開していたり。震災からすこし時間がたって、ようやく人々が落ち着いて冷静に「あの日以前」のことをもういちど見つめ直そうという、そういう雰囲気になってきているのかもしれないなあと思います。
自分も40才を過ぎてなんとなく、ようやく過去の自分に対して、すこし距離を置いて冷静に向き合えるような、そんな年齢になってきたように思います。
いろんな意味で未熟だった自分は、過去を見ると顔から火が出るように恥ずかしかったり、なかったことにしたいと、忘れたいと思うような記憶がやはり多かったように思います。傷つけ、傷つき、無知にして傲慢だった。そしてまたそのことが、自分のなかでどうしても許せなかった。自分が不完全な人間であることを受け入れるだけの度量すらなかった、ということなのだろうと思います。
それでも、いまにしてようやくそういう過去の自分に対して厳しくなり過ぎず、あるいは卑下することもなく、淡々と事実を静かに受け止め、そのことから何かしらの教訓を学び取ろうという肯定的な気持ちを持つことができるようになれた気がしています。
若さはそのピュアネスのあまり、自分に対して厳しくなりすぎるキライがありますが、年を取っていろんな経験を積み重ねることでちょっとだけ赦してやれるようになってくることがあって、それはまあなんというか長く生きてることへの神様のご褒美のような、そんな気もしたりするんですよね。