ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」についていまさらの長大なレビュー

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

発売当日に購入し、翌日に読了。その後メモなど取りながら読み返し、さらに過去作品や解説本をパラパラ読み返したり各レビューなどを見ながら新しい視点で三度目読んでから、ようやく書き始めました。書き始めたらまたさらにいろいろ気づいたり気になって再読したりしているうちに、どんどんブログのネタが込み入ってきちゃったので、いったん書いたものをうっちゃって、あらためて頭から書き直すことにしました。これはほとんどレビューというより読み替えのような作業でもありました。なので妄想のようなものも含めて削除せず記録しておくことにします。

さて、この作品は他の多くの作品と同様「直子」について書かれている小説であることは間違いないと思います。なので「初期三部作」と「ダンスダンスダンス」それから「ノルウェイの森」との関連のなかで読まなければ全体の謎は解けないし、もっといえばその物語は「国境の南、太陽の西」「ねじまき鳥クロニクル」にも消化されており、かたちをかえて「海辺のカフカ」「1Q84」へとつながっていくと思われます。また阪神大震災をモチーフにした連作「神の子たちはみな踊る」のなかの「タイランド」にもそのかかわりを読むことができそう。もしかしたら最初はこの話を下敷きに書こうとしていたのかもしれないなと感じました。

ただ、ぼくは文学評論家ではないのでそうした全ての関連した過去作品の再読を踏まえ、該当箇所を引用しながら「村上春樹論」としてのレビューを書くというような作業は(いずれはやってみたいものの)力量的にも時間的にもおよそぼくに太刀打ちできるものではないので他の人に譲るとして。

まずこの小説のプロットをさらっとまとめると「ノルウェイの森」における「レイコさん」のような印象を受ける「沙羅」はおそらくシロである。死んでしまったシロがかつて恋心のようなものを抱いたつくるに対し、16年前の傷を回復するよう導き手としてつくるの前に現れ、つくるはシロである沙羅の導きにより巡礼の旅に出てひとつひとつその事実を訪ねるなかで静かに受け入れていく。ちなみに沙羅の樹の華は白い花びらが中央の黄色い包み込むような形をしている花で、釈迦の生誕のときにそばに咲いていたとても可憐な花でもある。誰かも書いていましたが、沙羅の樹の花のようにシロが黄色であるつくるを包み込むイメージが、読後の深い余韻とともに残りました。

次にこの小説にはいくつかの謎が提示されている。それをひとつひとつ見ていくことにします(ここの謎解きに引っかかって時間がかかった)。 

 

 1.「色の謎」

いちばん有力なのは五行説との関連で読むのが理解しやすいです。青春、朱夏、白秋、玄冬。これで一年が出来上がる。つまり巡礼の「年」。で、つくるは黄色で土用。つまり各季節をつなぐ役割。だから彼の欠損でグループは崩壊する。五行は方位も表わしていて、青が東、赤(朱)が南、白が西、黒(玄)が北、つくること黄色は中央となっている。またここからさらに論を進めると、木(青)は土(黄)から養分を奪い、土(黄)は水(黒)をせき止め、水(黒)は火(赤)を消し、火(赤)は金(白)を溶かし、金(白)は木(青)を切り倒す関係とされている。いわゆる相克の関係。ただ、そこにあまり深い意味はないのではないかと思います。あったとしてもある種のお遊びと言うか知的遊戯みたいなもんではないかと。相克関係が決壊したときの感情の矢印の向きが乱れ、ある一方への力が働くことを示唆しているとかそのくらいのこと。バランスが失われたということでしょうか。むしろぼくは、彼ら5人のなかにアスペルガー的というか自閉的な心性を垣間見る気がしました。たとえば時折繰り返し挿入される「限定された目的は人生を簡潔にする」はアスペルガーの特徴に合致する部分があるし、で、色の関連で言えばアスペルガーはしばしば色盲あるいは色弱を伴うケースがあります、その場合には赤と緑はいずれも灰色に見えるというのがあります。つまりアスペルガーにとっては赤と緑と灰色は同一であり、それは即ち緑川と灰田(および彼の父)はもちろん、赤松も実在しないという作家の示唆ではないかと読めなくはない。もっというと「灰」色は「鼠」色で、鼠を示唆します。灰田はもちろん緑川や赤松も鼠の変わり身ではないか。そしてなにより、鼠はもともと作者の分身として「初期三部作」に登場していることを考えると、いろいろ納得する部分があります。また緑はヨーロッパでは「嫉妬の色」と呼ばれていて、このことは後述するトークンを持っていたのが緑川だったことと関連するように思います。

あと、この説はちょっと飛躍しすぎだと自分でも思うのですが、おもしろいのでついでに。これ、東京の地名との関連が言えたりするのです。「青山。赤坂。目白。目黒。」これらは五色不動として知られる。また多崎=大崎。大崎のすぐそばにはなんと五反田が存在するし、さらにはこの四つの不動の中央あたりにフィンランド大使館があり東のはずれに浜松町がある。というこれもまあ一種の遊びの類ではないかという読み。ただまあ、さすがにちょっとこれだと意味は感じないし深読み過ぎるかな。

 

2.「トークンは引き継がれたのか」

緑川は実際にはおそらく灰田の父にトークンを引き継いだのではないかと考えています。つまり緑川は生きている。沙羅の年上の男は緑川の分身なのではないだろうかと想像できなくもない。では、灰田の父から誰に引き継がれたのか?そこは語られないが重要なテーマであると思うし、いずれかたちを変えて書かれるのではないかと思うのですけど、おそらく色の関係でいえばアカではないかと思います。アカと灰田の共通点である「父が大学教授」というところに含まれる意味がもしかするとそれなのかと思います。そしてやがてシロへと引き継がれ(アカは死の直前に浜松でシロと会っている)シロはそれを引き受けて死んだ。では「トークン」とはなにか?これはまだよくわからないけど「才能と嫉妬」みたいなものではないかと考えます。あるいは「挫折」や「恨み」のようなもの。

 

3.「多崎つくるが駅をつくるのはなぜか」

ひとつは車との対比。つまりはアオとの対比であると考えられます。アオはがレクサスを販売するディーラーに努めているのも記号であって、これはトヨタカローラからレクサスへと言う彼自身の言葉の中に示されている団塊世代のシンボルであるトヨタカローラとの対比で90年代以降の日本の変化の象徴であると考えられる。また、アスペルガーが鉄道路線などに極端な関心を持つことと関連があるかもしれません。 

 

4.「母の不在が持つ意味は?」

この小説では登場人物の父のことについては職業など描写が登場します(ただしなぜかアオの父だけ丁寧に避けるかのように触れられていません)。しかし母は全く登場しません。唯一、母として登場するのがクロであることは、ある種の象徴だと考えられるでしょう。村上春樹の小説では、事象はすべて記号なので死も性も強いにおいを発しない。それが「人間が描けていない」というありていな批判になるのですが、そもそもこの人の作家としてのスタンスが「事実を事実としてでなく、寓話により真実に近づこうとする試み」というところから始まっていると思うのでこの批判そのものが的外れです。で、村上春樹が描くのは、夢のなかでの激しいセックスとフェラチオ、堕胎と父子関係。つまり母および女性の性の不在もしくは忌避です。ここにはおそらく直子の問題が隠ぺいされている。「直子」はおそらく望まぬ妊娠をし、堕胎したかもしくは宿したまま自殺しているのではないか。そのことがリアルなセックスへの忌避としての、夢精やフェラチオや堕胎という「記号」として描き出されている。母が不在なのはそうした「妊娠・出産の忌避」の結果として起きた必然の状況だと読み取れます。しかし、では中上健次の物語のように、ファルスとしての父が登場するかと言うとそれはありません。父は産科医だった(これも示唆的)といった記述があるのみ。これはまだよく読み切れていませんが、おそらくは「1Q84」で示唆されたビッグブラザーの反語としての「リトルピープル」との関連で読めるのだろうと思います。このことが物語の構成上や作中の関係性であまり重要と感じないクロの存在意義をここにきて大きくクローズアップします。クロは国外(つまりルールが適用されない場所)に逃れることで死を免れ、母になったということなのかもしれません。

 

5.「つくるはなぜ身体離脱するのか」

まず自閉症離人症に関連していえば、自他の区別がないということが「身体の喪失感」を伴うことがあると言われています。つくると友人たちにその傾向を見るとすれば、おそらくはそうした示唆があるのではないかと想像します。つまり自閉的傾向のある者同士の自閉的なグループの一体感。そこに日本性を見出しているのかもしれません。また村上春樹の父は長岡京市にあるお寺の住職であったことから、仏教とくに道元の「心身脱落」や「一顆明珠」との関連で読むのもおもしろいかもしれません。道元は「仏道を修めることは自己を明らかにすることであり自己を明らかにすることは自己を離れること」というようなことを言っていて、つまり「透脱」、無というか透明な存在になることと解されます(かなり乱暴ですみません)。よって「色を持たない(透脱した)多崎つくるくん」という解釈も成り立たなくもないわけです。

 

6.「シロをレイプし殺害したのはだれか」

これは最大の謎なのですがおそらくはアオであると考えていいと思います。殺害の状況がダンスダンスダンスの五反田君がキキを殺害したとされる描写に似ている(ちなみにこの描写が東電OL殺害事件に酷似しているという指摘も見かけた)。つまりアオは五反田君でありシロはキキである(もちろんキキは直子である)。ではなぜアオがシロをレイプし、殺さなければならないのか。そこはまだよく読み解けてはいませんが、おそらくつくるは「ダンスダンスダンス」の僕であり、作中で「僕は五反田君でもある」と語られるシーンが登場する。絞殺は首つりのイメージであり、直子の死をイメージさせると同時にそれは「風の歌を聴け」でテニスコート脇で首をつって死んだ女の子とつながる。首つり自殺させたのは自分が首を絞めて殺したも同じだと、おそらくつくるは考えているのだと思われる、というあたりからつくるとアオは同一性をもった損愛でありシロはそのことを知っていて、だからアオにレイプされたときにつくるがやったと言ったのではないか。つまり5人のグループの中でこの3人は特別な関係にあった。それは「僕とキズキと直子」の関係が反復されている。直子はキズキのことが好きだったがうまく寝れず僕と一度だけ寝た。そして自殺した。その関係性がここでは示唆されていると見ていいのではないでしょうか。それはたとえばシロの殺されたときに住んでいたのが浜松なのも、たとえば浜松はピアノの関連で言うとヤマハの本社がある場所であり、村上春樹ヤマハで思い出すのが僕と直子とキズキが乗っていたオートバイがヤマハだったことでも示唆されています。つまりアオはキズキの分身でもあるとぼくは考えています。そういう意味で読むとアオはいずれキズキがスバル360のなかでガスを吸ったように、あるいは五反田君がマセラティとともに海に沈んだように、レクサスのなかで自殺する運命にあるのかもしれません。もちろんそこは今回描かれていません。

 

以上、いくつかの謎は例によって謎のまま放置される。ぼくにもこれ以上は解けないし、これが合っているかどうかもわからない。ただ、ずいぶんと踏み込んで書いたなというか村上春樹さんも気が付けば64歳なので、彼なりにかなり自身の人生を率直に清算し、自分の死後に、あるいは次の時代へと課題を引き継ごうとするような意志を感じました。それがメインのプロットとは別に浮上してくる灰田の父の物語なんだろうと思います。

 

さて(ようやく!)物語の本題へ。つくるが友人たちから絶縁されてから、ふたたび彼らに会いに行くあいだ16年もの歳月が流れている。そしてこの16年という歳月は、1995年から2011年にぴったり符合する。これはつまり「阪神淡路大震災」「地下鉄サリン事件」があった年から「東日本大震災」があった年ということになります。つくるはこの16年間を沈黙のうちに、死へと向かって生きていた。それはおそらくつくるが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件などの「圧倒的に巨大な力によって引き起こされた理不尽な仕打ちによるアイデンティティの破壊」という事件に直面した被害者の心情を重ねているといえるのではないでしょうか。その被害者がもうひとつの巨大なルサンチマンを前にして傷の回復へと向かう巡礼の旅で出た、というのがこの物語のもうひとつの層における基本構造というかプロットだったのだろう、と。

 

ある意味で「日本そのもの」の暗喩といえる、ある種分かちがたい絆、明文化されてはいないルールで結ばれたひとつの若く未成熟でありつつ完璧な共同体が、見えない巨大な力で突然引き裂かれ深い悲しみに包まれてしまう。そのときそこに属していた人が、どうやってその傷から回復し、前へと歩みを進めていくのかを考え続けた作家のひとつの到達点だとこの作品をぼくは評価しています。村上さん個人の体験(後述)と、ふたつの震災の被災者やサリン事件の被害者、そして日本人全体が受けてきたこの戦後の分断。3つの層からなる物語をひとつの小説として描ききるというのは本当にものすごい作家になったものだなあと思います。

もともとは村上春樹さん自身が語っていたように、もっと短いものでおそらくはいま僕が書いたこのプロットをサラッと追うだけで終わらせるつもりだったのが、書き始めるうちに友人4人がどんな人間なのかを書く必要を感じ、それを書く課程で、緑川や灰田の父が生まれ、そのことで「トークンの引き継ぎ」という別の主題、つまり次世代へ向けた社会的課題の引き継ぎのような、より大きな構造が出てきたのではないかと想像します。そしてそれは、緑川や灰田の父が村上さんと同世代のいわゆる「団塊の世代」であり、今回の主人公である多崎つくると友人がその子ども、いわゆる「団塊ジュニア世代」であることに大きな意味があると思います(とりわけこの僕自身もかろうじて団塊ジュニアと呼ばれる世代なので)。これまでの「僕」をめぐる物語ではつねに作家・村上春樹自身の世代による物語であったのが、今回は明確にその物語の引き継ぎが示唆されている点です。またアオやクロにはさらにその子どもがいる。とくにアオは妻が出産を控えていて新しい命の誕生が示唆されており、クロは異国に出て行って混血の子を産み育てることが強調される。新しい日本人、新しい世代へのバトンを託そうとする意志が読み取れる気がしました。

 

最後に蛇足。これはあくまで推測なのですけど、この作品を読んで「直子」はおそらく村上さんの恋人か近しい友人で、なんらかの理由で自殺することになり、そのことに村上さんは関与していて深いショックと悲しみと絶望にさいなまれたのだろうということをあらためて感じました。またそこから10年近い歳月を経て「いまぼくは語ろうと思う」という宣言とともに書き出したのが「風の歌を聴け」であり、その冒頭があのような文章論だったことが、なんとなくこの「多崎つくる」を読んだことでひとつ完結したというか、深い悲しみとそれを乗り越える物語の力と言う村上さん自身がテーマにしていることがすでにあすこで提示されていたのだなあと、感慨深い思いがしました。書かなかった10年のなかに、多崎つくるの「死ぬことだけを考えて生きてきた」時間を読み取れるし、巡礼の旅に出ることは作家が書きはじめ語り始めることと重なると思います。

村上春樹の高校時代の新聞部の女性だったという話もある「直子」。作家との間にどのようなことが起こり、そのことがどのような影響を作家に与えたのか。詳しいことはいまはわからないけど、たぶんそれはモデルとされる女性と作家自身およびその周辺の人たちのプライバシーに関する問題が解決される頃、つまりはその人々の死後数十年経ってのちということになり、おそらくは村上春樹がようやくまともに文学史研究の対象となるころになってはじめて明らかにされることになるのだろうと思います。まあきっとぼくも死んでるだろうしぼくがその謎の解決を見ることもおそらくはないと思います。しかし、もしかしたらそれは息子の世代なら見ることが可能かもしれないし、いずれ息子たちが村上春樹の小説を読むようになればそんなことも話してやりたい。そう、まさにその謎解きは次世代に託されるのである。