読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

それがともだち

昨日、長男の幼稚園入園式に行ってきました。日陰は肌寒いながら陽がポカポカとしていて春風が園庭を吹き抜けていく爽やかな朝でした。うちの長男はちょっと気難しいタイプというか、まっすぐに自分の気持ちを表現できないところがあります。ですから「幼稚園行くのイヤー!」と暴れてみたりとか「ママと離れたくなーい!」と泣きわめいてみるというようなストレートなアプローチはなるべく避けようとします。さらにはそういうストレートな感情表現をぶつけてくるおともだちが苦手なんですね。スッと引いちゃう。で、それは一見とてもものわかりのよい賢い子どもように映ります(気分のいいときはね)。でもダメになるとこれが人の何倍も手がかかります。むしろ「イヤー!」とギャンギャン泣いてた子のほうが実際に行ってみると「幼稚園たのしー♪」とあっさりルンルンになったりすることが多いようです。

で、うちの子。今朝なども朝起きて「立てない!ママが抱っこで連れてって!」にはじまり「おしっこなんかひとりでムリ!(もう黙ってても勝手にひとりでおしっこできるんです、ほんとは)」とか「ごはん食べさせてー、そんな食べさせ方ダメ!パンにケチャップでお絵描きしてよ!ゾウなんかイヤ!キリンなんか首長すぎでしょ!イルカは動物園にいないでしょ!」などまあほとんどチンピラの恫喝のような感じで無理難題をふっかけ取りつく島のないご様子になり、すべての懐柔策はあえなく拒否されます。しまいには「食べさせて!食べたくない!食べないって言ってない!」ということになってしまって、もう自分でも収拾がつかない状況になっています。ふつうに「幼稚園行きたくない」と言えばいいのに、その直接対象となっている事案や感情の核心に触れることをどうも嫌がるんですね。「イヤだ!」と言いたくないんじゃないかと思わせるところがあるわけなんです。まあそれは半分やらなきゃいけないことだということが、よくよくわかってるからだろうと思うんです。そういう意味ではこの人は危険察知能力が高いし、神経質に過ぎるくらい慎重で「まずやってみる」ではなく「まず自分が理解する」ということを優先したいんだろうなと思います。

で、まあはじめのころはいちいち反応しては「もう!」とイラついたり「じゃあもう食べんとき!」なーんて叱ったりしたこともあったのですが、だんだんこれは彼にとっては必要な大切な時間で、いま立ち向かおうとしている難題(たとえば幼稚園だったり注射だったり)に対して、自分自身で何とかその不安や葛藤を乗り越えようとしているのだ、ということがわかってきました。これをぼくと奥さんのあいだでは「儀式」とか「イニシエーション」とか「確認作業」とか読んでいるのですが、とにかくそうなった暁には、彼という人間は一旦ここを自分ひとりで通過しないとそこから一歩も前に進めないのです。それは比喩ではなくてホントに物理的に立ち止まってしまうわけなんです。そんでママに抱っこされながらぜんぶを拒否してしまいに大泣きして、で、ママにはそれでもまずは一旦それをぜーんぶ受け入れてほしい、というわけです。でもそうこうするうちしばらくして、それこそ憑き物が落ちたみたいに(それこそ人格が豹変したように)スーッと落ち着きます。そして「いままでの不機嫌はなんだったの?」と思うくらいこれ以上ないという笑顔で笑いながら遊びに興じ、嘘のようにパクパクとパンをかじり始めます。「はー、めんどくせ」と、思うのですが、でもでもよくよく思い返すと、これってまんま昔のオレじゃね?などと思うわけです。

そういうわけですので、かんたんにみんなの輪の中に入って「みんなトモダチ―」みたいなことにはもちろんなりません。案の定、本日はじめてのひとりで立ち向かう幼稚園生活では、見事にみんなと遊ぶのを拒否。園庭で遊ぶほかの子たちを尻目に、ひとりでお部屋で時が過ぎるのを待っていたんだそうです。まあ親としては「らしいエピソード」としてそれほど心配はしていませんが、もちろんこのまま卒園までというわけにはいかないので、どこかでこのぶち当たってしまった壁に向き合い、乗り越えるのか立ち去るのか、いずれにしても自分で折り合いをつけないといけない日がくるわけです。と、ここで親として考えるのは、あの「儀式」です。彼はふだんから「儀式」を通じて孤独に耐えることや自分と向き合うこと、そして自分ひとりで壁を乗り越えることに関しては一家言持っているわけです。たぶん他の子たちよりも、そこの経験値は高いはず。だからきっと「人と順序が違う」というだけの話で、いずれは乗り越えてみせるでしょうし、そうしていざ乗り越えた暁にはむしろほかの子よりも早く自立するような気もしてるんです(親ばかでしょうか?)。

とにかく自分の子に限らずいろんな子どもを見ていて思うのは、あたりまえのことですが、同じ環境で同じことをやらせてもその感情表現の方法や行動の様式、あるいは得意と苦手など、あらゆることが違っていますし、それはなんというか本当に「個性」としか言いようのないもので、結局のところ長所は(これが見事なまでに)短所の裏返しなんです。だからほんとうに一喜一憂せず、おもしろいなあ、こんなこと考えてたのかーという具合に、親の方は距離を置いて眺めていてやると、案外子どもって冷静なんでなんのかんの言いながらそれなりに乗り越えていくんですよね。だし、そうやっていろんな子どもを見ることで、自分の子の個性がよりよくわかるというのもあります。

たとえばうちの子らしいエピソードでEテレの「ともだち8人」というのがあって、この番組をわが家ではよく見てたのですが、彼のお気に入りがなんとひとりが好きな「ぼっち」。まあ見事といいますか、思わずうなってしまうわけです。一貫してるなーと。で、この番組で流れる音楽で「それがともだち」という歌があります。この歌がぼくはとても好きなのですが、一見(一聴?)、なんてことのないいわゆる教育番組らしいほんわかした歌なのですが、ぼくがこの歌がいいなあと思うのはその歌詞の内容です。

 

すきになったり キライになったり

それでいいんだ それがトモダチ

youtube それがともだち」→http://www.youtube.com/watch?v=Y1VPqHnWIkA

 

この歌詞を書いたのは「無印良品」をネーミングしたコピーライターの日暮真三さんなのですけど(まあ同業者ですよね)ああ、なるほどー、と膝を打つ感じでした。「みんながみんな友達にならなくてもいいし、いつもいつも仲良しじゃなくてもいい」。かつてぼくは自身がそうゆう子どもだったこともあり、もし彼がいずれ友人関係で悩んだときにはそうゆうことを言ってやろうと思ってはいたのですね。まあ人の一生のなかで友人と呼べる人間が3人もいれば上等の部類だ、とかなんとかそんなことですね。でもすでにちゃんとこうして形になっているものがあったんだという驚きと同時に、そんな種類のメッセージをNHKの子ども番組で投げかけるというのはスゴイなあというか、ああこの人もちゃんと子育てに向き合った男の人だったのかなあと調べてみたら、なんと娘さんはあのSeagul screaming kiss her kiss herのヴォーカルの日暮愛葉さんで、彼女のブログでお父さんのことを書いたものを読んでいろいろつながった感触があったし、ベースにある「生きることへのまなざし」のようなものについてあらためて考えさせられました。

日暮愛葉 SKY日記」→http://sallysky.blog94.fc2.com/blog-entry-499.html

 モノを書くことを生業としている父、というものができることはなんだろうと考えて、やはり子育てをしていくなかで感じていた心の動きを書き残しておくことかなとか考えました。記録なら写真やビデオのほうがいいんだけど、思いと言うのはやはり言葉のほうが伝わる。まあすこしの希望もこめてではありますが、ひとりの書き手としてそんなことを思ったりしています。

 

と、ここでこの話はおしまいの予定だったんですけど、ちょっと余談。フリーランスになったことで子どもと長い時間接していられることは、自分がフリーになることのいくつかの理由のひとつではあったのですが、実際に接してみて思うのは、finalventさんも著作で書いていたように「人間ってどういう生き物なのか?」ということが非常によくわかる。そういう意味で男が子育てをしないことはむしろ社会的には損失であるような気がしています。男性の子育てをめぐる議論としては「とにかく子どもはスバラシイ」とか「時代はイクメン!」とか「男女平等や女性の社会進出」といった視点がやたら強調されがちなんですけど(もちろんそうした視点も実際大切なことではあるんだけど)、ぼくにしてみれば単に自分という存在がいったい何なのか?という根源的にして普遍的な問いに大きなヒントをもたらしてくれるだろうということ、これがいちばん大きいと思います。人間を生物として理解することで、たとえば大げさに言えば文明や社会の成り立ち、哲学や宗教の意味、学ぶことや教えることの意義、などへの理解が深まると思うし、そのことは結局のところ社会を構成する企業活動をするうえでも、普通にひとりの社会人として、あるいは市民として生きていくために大きなヒントになるんではないかと、それは実感として感じているわけなんです。べつに少子化対策がうんたらかんたらとか労働力人口がへったくれとかはそんなに思いませんが、婚外子とか養子縁組とかがもっとふつうになって、結婚にこだわらずもっとふつうにみんな子育てとかやったらいいんじゃないかなあと思います。ハッキリ言って子育てって、楽しいですよ!