ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

返事じゃない言葉

あらためて言うのもなんなのですが、ぼくはコピーライターという仕事をしています。コピーライターという仕事をしている人のなかでは、学校案内という仕事はあまりやりたがらない人が多いというか、編集系の仕事よりはたとえば「キャッチコピー一発で勝負」みたいないわゆる広告系の仕事の方が上だ とみなされているというか。たぶん広告カメラマンの世界でも似たような感じではないのかな。まあ手間もかかるしギャラも作業量の割に安いし、そもそもTCC年鑑とかに載らないし、というね。まああくまで一般論ですけど「広告→SP→編集」みたいな序列のようなものがなくはないんです。でもぼくはこの学校案内の仕事がわりにというかかなり好きなんです。理由はものすごく単純で、それは学生たちのリアルな話を直接聞けるからです。ではなぜとりわけ学生の話が好きなのかというと、多くの取材対象のなかで学生はわりあい素直に本音を語ってくれるからです。

 もちろん、学生以外の人たちは取材で本音を語らないのかというと、そんなことはありません。ですが、このところ顕著になっている「ある傾向」があって、それは昨今メディアがパーソナルになっていくにつれ、自らを語るいわゆる「自分語り」に対するある種の馴れのようなものを多くの人から感じるようになってきているのです。言い換えると答えるのが妙にお上手。反面、それはある種のクリシェというか「こう答えればいいんだ」という模範解答のようなものを(ふだんインタビューを受けないような一般の人でも)すでに持ってしまっているような印象を受ける機会が年々増えているなあという印象があります。これは訊き手としてはどちらかというとデメリットが多い事象としてとらえています。いわゆる「役割期待」みたいなことですね。「いまの気持ちは?」と訊かれて「最高です」と答えるアレとか「この気持ちを最初に誰に伝えますか?」なんていうやつのことです。そこで「キャバクラのねえちゃんに」とは応えないし、訊くほうもそこはみんなわかってて訊く、答えるほうもわかってて答える、みたいないわば共犯関係のようなものです。「お約束」とか「歌舞伎」とか呼んだりしますが、なんかそうゆう「空気「型」が自然にできてしまっていて、訊くほうはもちろん答えるほうもそれに無意識に応じてしまっている。ましてや企業の会社案内やお店の紹介記事の取材なんかになると、彼らもサラリーマンだし商売人なのでその傾向はより顕著になっていきます。

いや、で、訊くほうもまあいわゆるお仕事としてですよ、こなしていくにはそのクリシェとか役割期待とかに乗っかっていけば訊くのも書くのもカンタンだし、イージーなビジネスになるわけです。まあ提灯記事といいますか、適当に持ち上げておけばクライアントも喜ぶし、それで世の中まわってんだ文句あっか、と。でも本来インタビュアーの仕事としては、そこをどう崩すか、というところに勝負があるはずです。もちろんぼくはあくまで広告の商業ライターですし、作家でもなければジャーナリストでもコラムニストでもないので「ごちゃごちゃ言わんとケツもちやってりゃええねん」と、そう言われてしまえばまあそうなんです。そのとおり。それをひっくり返す気なんてさらさらないし、偉そうに勘違いしてるとかそういうつもりもないわけです。ですが、そこは逆にプロのライターとして、ツールの目的や媒体の特性からはみ出さない範囲内でというカッコつきで、すこしは本音に迫りたいな、いまの時代の空気や生の声を拾い上げられたらな、という思いは持ちながら取材していますし、少なくとも第一稿ではそれに基づいて書くことに心がけているつもりです(もちろんクライアントの訂正で書き換えを要求されることは前提の上で、です)。

その点において、学校案内は学生が相手ですから、そこらへんが比較的引き出しやすいんですね。こないだも3日間で52人の高校生にインタビューするというミッションをこなしてきたのですが、こっちがいわゆるクリシェ的な話法とか、歌舞伎的な姿勢を崩してって、フリースタイルに「で、どうなん?」みたいな感じ話し出すと、けっこう向こうもひらいて話してきてくれる。そこのハードルがけっこう低い。そこに学生インタビューのおもしろさがあります。それとぼくは学生ひとりひとりの話を訊くのがほんとうに楽しいし好きです。放っておくといつまででも話しこんでしまう。そういうのってプロとしては失格なのかもしれません。もっと割り切って仕事として相手と距離を置きするどく批評したりだとか、あと時給換算で効率よく職業に徹してやるべきとか、いろいろあるのかもしれません。キレイごと言ったところで所詮は学校の学生集めの宣伝じゃないかと、まあそう言われてしまえばぐうの音も出ない。そのとおりなんです。ぐう。

ただ、ぼくはこういう思考がもう本当にダメで、できない。なんというか好きになってしまうんです。話を聞いていくうちにどんどん相手側に感情移入してしまう。「まじめな子だなあ」「がんばってるよねえ」「いい先生じゃないか!」「ここ、伝えてあげられたらなー」てな具合です。この傾向は、商品広告や販促企画なんかの仕事の場合でもじつは同じで、たとえば間違いなくいい商品はなにも言わなくたって事実をストレートに語ればそれがいちばん強い。でも、それほどでもない商品はそうはいかない。ところがダメな子ほどかわいいじゃないですけど、このそれほどでもない商品のほうが「なんかいいとこないのか?」って一生懸命調べたりさがしたりしてるうちに、だんだん好きになってくるんですよね。そうして「ああ、こうゆうとくに優れたところもないけどでも悪いやつじゃないんだよ、みたいな人ってクラスに1人はいたよね、なんかがんばってほしいな、いろんな人に好きになってほしいな」みたいな気持ちになってくるんです。そうすると「ウソ」「ハッタリ」「誤魔化し」で買わせるということではなく、素直にこのあんましよいとはいえない商品の魅力を伝えられるコピーを書こうと、自然にそういうかたちで取り組んでいける。決してほかにくらべて良いとは言いきれないけど、これが好きだって人だってきっといるよね、という部分に光を当てていこうと努めるのです。(先日取材に伺った上記の学校は実績のある進学校でしたが)ましてや学校案内用の取材って商品が「人」ですからね。そうするともう感情移入の度合いもきわめて深く深くなっていくわけです。

いまやネットがひろく普及しているなかで、たとえばカリキュラムや奨学金、進学実績などに代表されるいわゆる「情報」の部分は、かなりの割合でウェブサイトにアクセスすればだれでもすぐに手に入る時代。そうすると、これは学校案内なんかに限らず新商品広告でも販促プロモーションでもおなじで、広告は(あるいは広報は)役割をシフトしていくべきで(というようなことはさんざん言われてるのですが)、それができていないのは、クライアントの無理解とか不景気とかではなくて(それも一因ではあるでしょうが)やはり制作側の怠慢だと、自戒を込めて考えています。先日のさとなおさんのエントリ(→http://www.satonao.com/archives/2013/03/post_3511.html)にもそのような焦燥感を感じたのですが、批判やニヒリズムばかりで構えててもなにも変わらないしはじまらないというか、自分の頭で考えてできることをしようよ、ということではないかなと。逆にそれがうまくいけばわりあいあっさり実現できる時代ではあると思うので。

で、最初の取材の話に戻るのですけど、ぼくはやはり「声」だと思っているんです。空気を読んだり型を演じているわけではない、ふつうの人のふつうの生活に裏打ちされた「声」です。まあ知ってる人には自明の話ですが、広告主の側はストロングポイントを伝えたいと考えます。しかしユーザーの側はもっと感覚的な「好き」を重視していると思うのです。もちろんそれは対象にもよりますが、人ってけっこういちばん良いものではなく、いちばん好きなものを買うのではないかと思っています。良いか悪いかだけではなく、そこに好きになれる要素があるか?という点で、その傾向は年々強くなっていると思います。そこを見つけていくことがマーケティングではないクリエイティブのもっとも大事でありほとんど唯一といってもいい仕事になると思います。そのためには、やはりふだんからケツもちではなく、その対象を語り手自身がいかに好きになれるかがますます重要だと感じています。前からそんなことを考えてはいたのですが、さとなおさんの記事読んで勇気がわいたというか、いろいろあらためて元気になったです。ほんと。あー仕事してー!