ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

知性と寛容さについて。

さかもと未明さんのJALでの振る舞いが話題になっています。読んだ方も多いでしょう。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121119-00000002-voice-pol

 

先日も電車にベビーカー乗せるな論争みたいのがあって、今回のも少子化が社会問題になるなかで社会が子供に不寛容だとか、そうゆう論調の延長線上での批判が多かった印象を受けました。なかでも印象的だったのは乙武さんの意見で正確には忘れましたが「大人が我慢できないから赤ちゃんに我慢させろというのか」というような内容でした。ぼく自身、子育てする身としてはまったく同感です。

で、ここには大きくふたつのポイントがあって、ひとつめはたとえば実際にベビーカーで歩いてみるとわかるのだけど、そもそも街の設計がいまだに昭和のまんまとゆうことが多い。で、そうゆうベビーカーにとって外出しにくい社会というのはイコール車いすにとって外出しにくい社会ということなので、こうした部分は早急に改善していくべきだろうと思うのです。こういうのは小学校なんかで車いすを押して街を歩くような体験授業をやってみたらどうかと思うんですけどね。

それともうひとつは、やはり不寛容な人が多いということはたしかに感じます。しかもその多くは(あくまでぼくの経験上による独断ですが)年配の方々と30代40代の子育てをしていないだろうと思われる女性で、もっと若い人たちはわりあい寛容であることが多いように感じられます。ぼくもよく公共交通機関で赤ん坊や幼児をつれたお母さん方と遭遇しますが彼女たちは一様に申し訳なさそうにしており、なるべく迷惑をかけないよう非常に肩身の狭い思いをされていらっしゃる。こちらが「ここいいですよ」と声をかけるとこちらが恐縮するくらいに感謝される。これはやはり異常なことだと思うのです。

 

ただ、こうした話はすでに多くの方がされているので端折るとして。ぼくはちょっと違う角度で考えてみたいのです。たとえばこうゆう記事があります。

http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2219153/Why-crying-baby-impossible-ignore.html

 

赤ん坊の泣き声というのは、その子の親であれ他人であれ、その如何にかかわらずすべての人が不愉快に感じるようにできています。たとえば仮に赤ちゃんの泣き声がベートーベンのピアノソナタのように心地よいものだったら、だれも急いでコミットしようとは思わないでしょう。不愉快であるがゆえに気になるし、なんとかはやく泣きやませたいと思う。そこに赤ちゃんの生存戦略があるわけで、これは人類が獲得した生存にかかわる大切な能力なわけです。で、ここに書かれているようなことはすでに20年位前には読んだ記憶があるし(当時は研究段階で実証されてなかったということかもですが)、そのくらいのことはある程度の就学経験あるいは社会経験を積んでいればふつうにどこかで出会う機会があり、すでに知っていておかしくはないだろうということ。ましてや作家を名乗るような方が知らないはずはないだろうとも思うのです。さかもと未明さんは「神様、いじわる」という本を読んで感銘も受けたし、難病を克服されたことには尊敬の念を抱くところではありますが、この程度の知識をもし知らなかったのだとしたらどうなんだろうと思うのです。

 

というのは、ぼくはマナーや社会秩序というものに厳格さを求めたりせずとも、そもそもこのような科学的・生物学的な一般的な知識があれば(さかもと未明さんに限らず)社会はもうすこし子供に対して自然に寛容に接することができるのではないかとつねづね感じてきたんです。で、もっといえばそれはその赤ちゃん問題に限定せず、もっと多くの場面で感じることが増えてきている気がします。つまり科学的・論理的な基礎教養のようなものが乏しいがために、いわゆる無知であるがために起こるコミュニケーションの断絶のようなものです。

 

たとえばわかりやすいたとえ話をします。ちかごろ「アメリカの映画がわかりにくくなった」というような感想をよく耳にします。たしかにむかしのハリウッド映画のような単純明快な物語ではなくなっていますし、どうしても社会が複雑になるにつけ脚本もその複雑性を反映していかなければリアリティを持たせられないことはあるでしょう。その結果、なんだかよくわからないということはあるかもしれません。でもぼくはその前に、われわれがアメリカの社会で起きていることを知らないだけではないのか?という疑問がわくのです。たとえば聞きかじりの知識でも、ヒスパニック系移民の増加や中東へのコミットメントのやりかた、宗教(とくに宗派)に関する基礎知識、銃に関する意識など、アメリカ内部で起きている社会構造の変化をすこしでも知っていれば容易に想像できるものでも「なんかようわからんかった」で終わってしまっている人の意見をよく耳にします。これではドラマ映画は受けないし、カサベテスの居場所などあるはずもないわけです。

 

いやね、偉そうなことを言うつもりはまったくないんです。ぼくなど高卒ですし、専門的かつ体系的に学んだわけではないんですよ。フリーター時代に時間があるけど金がないから親父の書棚に並んでたルソーだのヘーゲルだのキルケゴールだのヨーロッパ哲学全集を片っ端から読んでみたり、映画やってたころに脚本書くのに必要だから図書館で専門書読んだり、コピーライターになってから仕事の資料で専門知識に出会ったりしたような、ほんとうに雑駁な知識ばかりなわけです。いわゆる床屋談義レベルのものだし、読みかじり聞きかじりの頼りないものばかりです。しかしそれでさえ、こうしたふつうに知ってておかしくないことが、あまり社会で共有されないのはなぜなんだろうと感じることが増えたことが不思議でしょうがないだけなんです。作家を名乗るさかもと未明さんですら、そうなのですから。

 

ぼくはハタチくらいのときに京大のサル学の権威だった河合雅雄氏の著作「森林がサルを生んだ」を読み、それまでの倫理観や生命観、ひいては人生観を覆されるような衝撃と深い感銘を受けました。ぼくはこのくらいの本なら高校で副読本として読ませていいんじゃないかと思います。すくなくともぼくが中学生でこの本にであっていたら、おそらくは生物学を志す道へと踏み出していたのではないかと思いますし。ともあれ、そこで得たある種の教訓は、旅人にとっての北極星のように、いまだにぼくが未来を決定したり困難に立ち向かうにあたってひとつの動かぬ基準点を示し続けてくれています。

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近年は社会学的なものの見方ばかりが幅をきかしていて、根源的な生命の欲動のようなものを軽視しがちであるという気がしますし、もっといえば、生物としての欲求よりもそれを抑制する社会的な倫理のほうが高度であるという風潮が強まっているようにも感じます。しかしサル学が提示する、生存本能に基づいた集団社会の心理から学ぶことは多いし、われわれ人間を組成する肉体のシステムがサルはもちろんイヌやネコとそれほど変わりない以上、そこから導き出される行動原理がそんなに高尚なものであるはずがないというのがぼくの〈あくまで個人的な)人間観であり社会観です。

 

ともあれ。ぼくが得た教訓はこうです。「知性は、人をやさしくする」ということ。知性を持つことでたくさんの視座をもつことになり、その結果として多様性を認め、他人に寛容になり、そうした人が増えることで社会全体が寛容になる。なんだか最後はユートピアみたいな話かもですけど、ぼくが科学や文明、テクノロジーをはじめ、知性に対して抱いてる認識はずっと変わらずこうだし、ぼくはいまもそれを愚直に信じています。