ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

誕生日に。

こどもが、できて。誕生日の意味が変わった。それはほんとうに奇跡なんだと、まさに手に取るとはこうゆうことかとゆうくらいに、実感できた。じぶんがここにいることも。あなたとここにいることも。いまから3年前、息子が産まれたその瞬間、ぼくはゆるゆるとからだじゅうのちからが抜けて、ほろほろとほんとうに意志とは関係なく涙が勝手に流れ出た。気持ちって、ほんとうにあふれるんだと、そのときはじめて知った。そして、そのことで。その瞬間、父や母も、僕の誕生の瞬間には、そのほろほろやゆるゆるを感じていたのだろうと思うと、また気持ちがあふれた。涙になってあふれる。父の日よりも、母の日よりも。もしかしたら父と母に感謝する日が、誕生日なのかもしれないと、思うようになった。自分よりも、ぜったいに大事なものができる。そんなことは、ほんとうに素晴らしい。素晴らしいことなんだって思った。いま奥さんが次男の出産のためにがんばってる。息子が宇治の実家でばあばのもとでがんばってる。そうやって、みんなが新しい命の誕生を待っている。誕生日というのは、そうやって、みんなの思いが産まれた日でもある。けたけた笑って。ぷりぷり怒って。しくしく泣いて。けんかしては、仲直りして。約束しては、裏切られて。キスをしては、ふられて。そんな風にして人生ははじまって、終わっていく。そこに、ぼくはいる。そこに、ぼくらはいる。それ以上、なにがいるだろう?そう思った。たぶん、なんにもいわへんけど、いまだに母はぼくの今日の誕生日を大切に思ってる。きしょくわるいけど、たぶんそうやと思う。それはいま、自分が親になってわかったこと。それも、2人目の誕生に際して、ちっさいわずか3歳の長男が、ひとりでママに会えないさみしさに耐えてる姿を見て、思い知ったこと。

こないだ息子は、預けられてるぼくの実家でぼくの母親に「もうママはぼくのことわすれちゃったかなー」と、ぽそっとつぶやいたそうです。それまでさびしいとか言ったこともない、ふだんどおりきゃあきゃあゆうてた息子が、えんえん泣くわけでもなく、ぎゃあぎゃあ喚くわけでもなく。ぽそっとゆうたそうです。それで母は「もう私が泣いてしもたわ」とゆっていた。ぼくもそれ聞いて泣きました。奥さんに伝えると、やっぱり泣きました。みんなが新しい命の誕生を、息をひそめて、耳を澄まして、待っている。その秘めたやさしさやら思いやりやらよろこびやら。人のこころの、いちばん奥のいちばんやわらかい部分の感情が、赤ん坊といっしょにほろほろとあふれ出てくる。そんな日のことを誕生日とゆうんやとぼくは思うんです。自分の誕生日は、自分だけの誕生日ではない。3歳の息子の誕生の瞬間を思いだしながら。41年前の自分の誕生日の父と母の姿を想像しながら。そして新しい命を抱きながらその時を待つ、奥さんとおなかのなかの赤ん坊のことを思いながら。おめでとうではなく、ありがとう。