ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

西陣空襲の日によせて。

いまから67年前の今日6月26日、いわゆる「西陣空襲」といわれる京都でもっとも大規模な空襲がありました。「え?京都で空襲?」と驚かれるかたも、まあ少なくないかもしれません。京都は文化財保護のために原爆投下をはじめ空襲や大規模な爆弾投下などの戦災を免れたと多くの人が信じているからなんですけど、でもほかにも東山や太秦京都御所など、東京や大阪にくらべ規模ははるかに小さいものの空襲は行われていました(というかそもそもは盆地で爆風の効果が出やすいので原爆投下のナンバーワン候補だった。だからその効果測定のために大規模な空襲を控えてたという説もあるんだとかいやはや)。

そんななかで西陣空襲は、京都市内の空襲でもっとも規模が大きく50人の方が亡くなり66人が負傷、292戸の家屋が被害を受け被災者の数は850人にのぼったことや、いまぼくが住んでいるあたりが西陣空襲の被災地から近いことや空襲当時祖父祖母の家が二条城をはさんで南側すぐの中京区職司町にあり、父から家の下に防空壕があったことなどを聞いていたこともあって、以前より個人的に関心があったんですね。

たとえば、おいしく質のいい油の専門店として有名な山中油店さんの店頭にはウインドーがあってそこに空襲時の爆弾の破片が展示されています。また智恵光院通を上ったところにある辰巳公園には戦災の碑があります。当時その公園の向かいの木には爆風で吹き飛ばされた女性の死体が貼りついていたそうです。また近隣の昌福寺では井戸に落ちて不発弾となったのだといいます。くわしくはここ(http://d.hatena.ne.jp/narutakiso/20100815)をはじめ「西陣空襲」でググるといろいろでてきます。なので詳細はそっちにゆずるとして、ぼくなりに書いておきたいのはこうした事実の記録ではないところです。

昨年、東日本大震災があり津波が人や車や街全体を飲みこむ映像をリアルタイムで見たこともあってか、この被害者の数や規模は小さいけれど身近な場所で起きた西陣空襲のようすが、なぜかありありと、それこそ手に取るように、この目で見たような、この肌で感じたような気がしてくるのです。買い物やお散歩で智恵光院通りをなにげなく歩きながら、ぼくは容易に「その瞬間」へとタイムスリップできてしまうんです。B-29が侵入してくる爆音、爆弾の投下されるひゅるひゅるという音、激しい炸裂音、熱、空気を切り裂く爆風、地響き。家や木や人が焼け焦げた匂い。立ちのぼる火柱と黒煙。見慣れた街並みがあっという間に見たこともないこの世とは思えない景色へと一変し、そのことで情報処理が間に合わなくなって、一瞬いま自分がどこにいて誰なのか理解できなくなる感じ、白昼夢のような感覚を共有し体験している錯覚に襲われることがあります。

以前、父に尋ねてみたことがあったのですが昭和20年当時、父はまだ4歳だったこともあり、家の下に作った防空壕に家族みんなで入ったことは覚えているがくわしいことはわからん、ということでした。でも爆撃があった場所と当時の父の家の距離を考えれば、おそらくは4歳の父も炸裂音や地響きを耳にしたり感じているはずで(もしかしたら上空を飛ぶB-29を見ているかもしれないなあ)、こういうとオカルトになっちゃうけど、そうした記憶が自分の中に流れているのかもしれないな、とちょっと思ったりもします。それにその西陣空襲がもうすこし南側まで拡大していたら、父はその空襲で死んでいたかもしれないし、そうするとぼくはこの世には生まれてくることはなく、こうして暢気にブログなんか書いてることもなかったわけです。

ぼくが知りたいのは史実や記録資料としての戦争ではなく、個人的な体験と個人的な言葉で語られた戦争です。もちろん戦争は悲惨だしぼくも反対です。けど、いわゆる反戦とかなんとかそういうイデオロギーや思想ではなくて、そのときそこにいた人はなにを見てなにを聴いてどう感じたのか。どんなことを誰と話し合ったのか。どんな行動をしなにがそれを支えたのか。悲しみや苦しみはもちろんだけど、逆にどんな喜びと希望があったのか。好きな人はいたのか。勉強はできたのか。趣味はなんだったのか。どんな歌が流行っていたのか、などなど。「大切な人が亡くなっても腹は減る」みたいに。つらいときこそスローガンみたいな言葉で語る悲しみや怒りではなく、もっと個人的な救済や希望を語る言葉が必要なのではないかと、ぼくはいつもそんなふうに思っています。

いま3歳の息子を持つ父親としては、当時4歳だった幼き父の体験したであろう戦災を想像しながら、とっても勝手な使命感ではあるのだけれど、ずっと昔、といってもまだかろうじて被災体験者が生きているくらい近い昔に起きたこの街の大きな禍を通して、その災禍を生きた人の強さや希望のようなものを、なにか具体的な形としてきちんと残しておきたいなという思いを持っています(ただ僕自身がいまアウトプットできるきちんとしたプラットフォームがなく、もし語り手を見つけて取材を申し込んでも「なんで?なにに載せるの?」と聞かれると「いやあ個人的な関心事で」としか言いようがないんですけども)。でも、たぶん当時のことを語れる程度に年長だった方々というのはいまやかなりのご高齢であり、残された時間は決して多くはないと思います。なので、やはりこれは自分のなかではきちんとプロジェクトにしていきたいなと思っています。うん、今回はようやく「まえがきらしいまえがき」になったかもです。