においと音を翻訳すること。
このブログは、ぼくが会社を辞めることになりいちおうフリーの「たくらみ屋」「ものかき」としてきちんと自立していくうえで、いずれ仕事のなかでアウトプットしていくことになるだろう日々の思いを、いわば「まえがき」というかたちで、まったくノンフォーマット、ノンテーマで書いていこうとはじめたものでした(そういえばブログタイトルそろそろちゃんとせなな)。ただ、ちょっといきなり長めの論考みたいのが続いて、これがフォーマット化していくと、あとあとツライので今日はちょっと軽めのものを書いてみます。
ぼくはよく歩きます。それもけっこう長い距離を、ウォーキングとか街歩きとかではなく、単純に移動として、大またで、かなりの速度で、ずんずんずんずん歩きます。そのなかでいつも印象に残るのは「におい」と「音」なんです。なんとなくぼくたちは、さまざまなメディアがより視覚化・映像化されていく過程のなかで、どんどん視覚による情報に重きをおくように、自身をどんどんどんどん仕向けていっているような気がします。もちろん言うまでもなくそれが決して悪いわけでもないのですけど。
ただ、たとえば印象的な写真や映像、あるいはデザインや絵画でも、それは意味論とか視覚構成的な技術論のみではない「なにか」が含まれているものに、われわれは感動するような気がしていて、それはよく「空気感」みたいな言葉で表現される種類のものだと思います。ぼくはこの空気感の正体こそ「においや音」ではないかと、よく感じることがあります。
細い路地をラッパをならしてゆくお豆腐屋さん。カラフルでおいしそうな野菜やフルーツ。誰もいない浜辺。地平線とおくまで続く花畑の風になびく花々。夕景にむかって背を向けて全力で走ってゆく男の子たち。こうした風景を切り取った写真や絵画のなかで、われわれに直接訴えかけてくるのは、その「絵」のなかから飛び出して花や耳にダイレクトに伝わってくる「におい」「音」ではないのかと思うのです。写真にしても絵画やデザインにしても、そういう人々を惹きつけるものの多くは、その脳に直接伝わる「におい」「音」という原初的な感性をある種の言語として翻訳しているものなのではないかと思うのです(そういえばネコも犬も目が悪いですよね。ほとんどの情報をにおいと音にたよって判断しています)。
いま大河ドラマで「平清盛」をやっていますが、重要な政(まつりごと)のシーンで天皇や公家が歌を興じます。これなんかは、ただ雅やかで現実を見ない者たちの愚かな戯れということではなく、当時の政に歌が重要な役割を果たしていて、そこには神仏の摂理であるところの自然の移ろいのなかに浮かぶある種の心情やものごとの成り立ちを、より巧みな言葉に翻訳し「現出させる」ことが、政治家にとって重要な能力であったということで、じつはそれはいまだって同じなのではないのかとぼくは思っています。
先日、町を歩いていてこんな会話を耳にしました。
「おはようさん」
「あらまあおはようさん」
「今日はえらいお天気さんで」
「せやけどよう降りましたなあ」
「畑には恵みの雨どしたけどな」
「ほんまどすなあ」
おそらくは70歳近いご近所同士の男女のなにげない会話でしたけど、こういう生活のなかにある言葉、生活の営みのなかから、ポソっとしぼりだされる言葉には、ぼくらがふだん目にし耳にしている「情報」からはぜったいに得ることのできない、言葉の本質があるように思うのです。ぼくは、こうした生活の営みとしての言葉、街のにおいや音が語りかける言葉を、きちんとすくい取りながら、いわば翻訳者のようなかたちでメディアに載せていけたらなあと思っているところであります。