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ゴジマエ~後日読み返してもらいたいささやかなまえがき~

1971年生まれ。京都府出身・在住。コピーライター・プランナー。約15年間、大阪の広告制作会社勤務ののち2012年7月からフリーランスに。キャッチコピー一発から広告全体のプランニング・進行管理、企業の販促企画(企画書作成)まで、会社案内や学校案内・フリーペーパーなどの取材からライティングまで、幅広くやってます。 お仕事の依頼などはfuwa1q71@gmail.comまで。 

絵描きさんの文章作法に学ぶ。

 

またしてもカンバラクニエさんの「すりばち眼鏡」トークイベントよりひとつエントリーを起こしてみます。カンバラさんといえばおなじみのあの独特のタッチの絵描きさんであるということが大前提であります。だから絵に惹かれるのはむろん当然のことなのですが、その大前提のうえにでーんと乗っかっといたうえで、あえて「すりばち眼鏡」のなかでぼくがとくに惹かれたの(やっぱりぼくはものかきなので)文章なんですね。この本のなかでも言及されている通り、京都人というのはやたらと繰り返したがります。「ほんまにほんまに」「さっぶいさっぶい」。京都人であるカンバラクニエさんが書かれた「すりばち眼鏡」の文章はまずひとつの特徴としてこのくり返しがよく使われています。それから似たような音の言葉、似たようなリズムの言葉、似たような意味の言葉が、反復したり対になったりしながら出てきます。これが独特の文章のリズムやタッチになっています(どんなのかは、ぜひみなさん自分で買うて読んでみてください)。

で、トークイベントのなかでカンバラさんはその文章のタッチについて「どうしてもカチッとした文章が書かれへんので、おもてることをそのまま書いたらこーなっただけなんです」というようなことをおっしゃっていました。たしかに女性にはそういうちょっと天才的な書き手というのはいて、べつに意識してないのだけどふつうに自然に書いていくとムダのないそれでいて味のあるスキッとした文章が書けちゃいました、という方が少なからずいます(完成度の差こそあれ)。ぼくも何人か新入りにコピーライティングを教えてきた経験でいうと、女性のほうがいわゆることばのセンスのある人は多かった気がします。ただし、ぼくが属しているコピーライティングの世界というのはそこだけではやってけないんで、いわゆるカチッとした文章も書かないといけません。そうしてセンスだけで書けないカチッとした文章というのはやはりカチッとしたトレーニングがいるので、どうしてもコピーの仕事での文章トレーニングはこの「カチッとした」文章のほうに重心が置かれます。「てにをは」「、や。の位置」「字使い」などなど、その他基本ルールが山ほどあって(それについてはまたいつかあらためてきちんとエントリーで書いていこうと思っているのですが)ここを通過しないと一人前のライターにはなれません。

しかしそのいっぽうで見失いがちなこともあるのです。たとえば流暢に話す人に限って話に中身がないなんてことがよくあるように、非常にシステマティックにかつ論理的で起承転結がありテクニック的にも申し分のないカチッとした文章を会得していくことで、どんどんその書き手の文章がおもしろくなくなっていくということはけっこうあります。理由はかんたんで、カチッとした文章にはカチッとした作法があり定型があります。このへんがまあだいたい正解ですよ、という指標ですね。こうしたコツをつかむのに先のトレーニングをやるのですが、いちばん近道なのは「反復」なんです。量が質になるの典型パターンです。「まあ黙って書け」の世界です。だから。いったんこのトレーニングを完遂して定型を手に入れるとこんど逆にそれを崩せなくなってしまう人はけっこう多いですね。定型というのはいわゆる「クリシェ」ですから、広告のいわゆる読ませるコピーなどを書く場合には、こんどは逆にぜったい使ってはいけない「禁じ手」へと反転してしまうわけです。「夏こそ〇〇」とか「あなたの夢がどーしたこーした」とか「伝統と信頼の〇〇」とかそういうのです。

 

つまりライター修行の過程としては、

 

①自分が思ってることをなんとなーく書いてたアマチュア時代から

②カチッとしたトレーニングを経てカッチリ伝えるスキルを手にしたら

③こんどはまるでなかよしの友だちがなんとなーく書いてよこした手紙のように書く

 

こういう変遷を(人と場合と状況にもよりますが)オーソドックスには辿るはずなんですね。

なので、ぼくはカンバラさんが「おもてることをそのまま書いたらこーなっただけ」とおっしゃっているのには、たぶんに謙遜もあるだろうとふんでいます。「アーティストとかゆわれんのがいちばんはずかしい」とおっしゃるメンタリティの持ち主ですから。で、これは完全にぼくの想像(というか妄想)なのですが、おそらくは本をたくさん読まれるのではないか、と。そしてそれを字を目で追う読書(目読とかいて「もくどく」)ではなく、音読に近い黙読(これは経験者にはわかると思うのだけど)されているのではないかと思いました。イベントの最後の質問コーナーでぼくは「この文章けっこう書き直しますか?一気に書きますか?」と質問したところ「あんまし書き直さない。一気に書く」とお答えいただきました。それはほぼ想像通りで、おそらくはそうゆう読書経験がある意味そのまま文章トレーニングになっているのではないかなあと思います(違ってたらごめんなさい!)。でも一般論的に見て、そういう人というのは文章の基礎体力があらかじめできている人で、入社してくる新人さんでもたまーに出会いますね。

おそらくは文章をふだん書かない人にとっては「カチッとした」文章を書くほうが技術的にも労力的にも難儀だというふうに思われるでしょう。しかしある程度文章のトレーニングを積んだ人から見ると、じつはカンバラクニエさんのような文章を書くほうがはるかに難しいのです。それは「伝える」文章ではなく「引き込む」文章です。そしてこれはトレーニングだけではぜったいに書けないものだからです。

で、ぼくはこれからフリーになってまずやりたいことは、世の中の「カチッとした」事象を、「ふわっとした」文章で書いていくことです。社会の大事なことはたいていやっぱりカチッとしたもんです。だから正確に伝えるにはカチッとした文章になりがちです。でもそのことで、かえって伝わってないことのほうが多いんじゃないのか?そんなことを、ほんとうに震災のあとのツイッターのTLとか見ててもどかしく感じていました。みんなが言葉を信じなくなってる気がしました。でもぼくはやっぱり言葉なんだと思っています。言葉以外のコミュニケーションに傾倒することでオカルティズムが台頭します。行き着く果てはオウムです。ぼくはあの時代の空気を吸っていた一人の人間として、そこはやっぱりあかんと思てます。なので、カチッとした仕事をやりつつも、そういうもういっかいみんながいろんな言葉に耳を済ませたくなるような企画なり仕事なりを、ぼくなりにいろんなところでやっていきたいなあと思っているのです。